青山祐介

マーラー 君に捧げるアダージョの青山祐介のレビュー・感想・評価

2.5
『もしそれが芸術なら、それはすべての人のためにあるのではない。そしてもしそれがすべての人のためのものなら、それは芸術ではない』…民の声は神の声ではなく『民の声は悪魔の声』である。(マーラーの秘蔵子弟子アーノルト・シェーンベルクの言葉)
パーシー・アドロン/フェリックス・0・アドロン「マーラー 君に捧げるアダージョ(Mahler auf der Couch)」2010年 ドイツ、オーストリア映画
背景にはエサ=ペッカ・サロネン指揮、スウェーデン放送交響楽団の未完の交響曲第10番第1楽章アダージョが流れている。これはまことに興味深い映画である。
音楽家の多くが「マーラーの音楽と伝記は関係しない」また「マーラーの音楽を説明するのに伝記は役に立たない」と言う。あえてこのように強調するのは、それはマーラーがアドロンの映画のように「音楽以外の事柄で語られる唯一人の作曲家」であるからに違いない。それでも、多くの人がマーラーの音楽と伝記を結びつけようとする。いずれにしても「どんな芸術表現も意図的であろうとなかろうと自伝的である」ことは事実である。マーラーの歌曲、交響曲を聴くと、ベートーベンやブルックナーとは違い、その極端な自己表現や個人的で壮大な音の世界に圧倒されることがある。それがマーラーの音楽と実人生を結びつけようとしてしまう理由のひとつであろう。なかでも、私たちの心を捉え、ロマンティックな情念を揺すぶる主題が「アルマのテーマ」である。映画は「マーラーとアルマ」を中心に、いままでの通説を覆すユニークな視点で描いたものだとある。「マーラーとアルマ」の性と葛藤をロマン主義的に表現した「君に捧げるアダージョ」は、まさしくそうした私たちの願望からつけられた邦題であると理解できる。それよりも、私には原題の「Mahler auf der Couch」のほうが、この映画にはしっくりとくるような気がする。あるいは「症例、音楽家M」とか「フロイトと音楽家」とか、映画を観ていると、どうしても私の興味はそのほうに傾いてしまうからだ。私がこの映画を観ようと思ったのは、「カウチ上のマーラー」という原題を知ったからである。狙いは面白いし、題材もいい、しかし最初に観た印象はけっして良いものではなかった。まず、フロイト博士の登場である。物語は、ウィーンにおける草創期フロイト精神分析の「起こったことは史実、どう起こったかは創作」であることを基調に始まるが、心理療法の当時の雰囲気を捉えそこなっている。フロイトは私の持っていたイメージとは程遠く、似ているのは葉巻と髭ぐらいのものである。フロイトはマーラーの無意識を暴く狂言回しに過ぎなくなっている。マーラーがフロイトの心理療法を受けたのは事実であるが、そこで行われた会話は創作である。被験者はカウチの上に横になり、療法家の質問に誘導され、自由連想によって、無意識の世界に入り込んでゆく。無意識の中では、誰にでもフロイト的な数多くの衝動や抑圧された感情や不安が入り乱れ、ぐるぐると廻っている。フロイトはその衝動を白日の下にさらし、私たちの心の闇を見事に暴いてゆく。危険といえばこれ以上危険なものはない。精神分析は、芸術であろうと夢であろうと、心であろうと、欲望であろうと、抑圧されていた無意識下のすべてを白日の下にさらす。映画の視点は「マーラーとアルマ」とのリビドーの分析に移ってゆく。ライデンの街をゆっくり(アダージョ)と「4時間歩きながら行われた精神分析」の内容が私たちの関心の最大のものになる。アルマの描き方を失敗するとマーラーの芸術そのものが凋んでしまう。アルマは、自由奔放で、官能的で、ピアノを弾き、作曲をし、文学的才能にあふれたウィーン社交界の華であり、あのクリムト(クリムトらしくないクリムト)が描きたくなるような女性、ミューズである。その官能的な仕草、立ち居振舞い、口調、服装、それが私のアルマである。残念ながらここには、アルマはいない。あの音楽教師のような若造にアルマが惚れるであろうか。ケン・ラッセルの「マーラー」がケン・ラッセルのマーラーでしかないように、映画のアルマはアドロンのアルマでしかない。しかもこの映画には、登場人物にしろ、時代の空気にしろ、世紀末ウィーンの香りがしない。
フロイトの最後の言葉は、フロイトではなくアドロン自身のアルマに対する言葉なのであろう。「君に捧げるアダージョ」に音楽のミューズを期待したファンは完全に裏切られることになる。
青山祐介

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