るる

プーと大人になった僕のるるのネタバレレビュー・内容・結末

プーと大人になった僕(2018年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

以下、備忘録。

ドーナル・グリーソン主演の伝記映画『グッバイ・クリストファー・ロビン』を製作発表時から楽しみにしていたんだけど、そうこうするうち、今作の製作と公開日が発表されて。ややこしいな、こっちはディズニーか、そりゃこっち優先で公開されるよな、で、あっちはどうなるの、とやきもきしていたら、レンタルスルーが決定して。ちょっと悔しくて。
今作は予告編を見ながらテンション上がりつつ、なんとなく期待値は超えない気がしていて、映画館で見ようかどうか迷ってた。
『グッバイ〜』のほうは、しんどそうな概要だなと思いつつ、原作者と息子の関係に興味があって。
どちらかというと『グッバイ〜』を早く見たくて、でも『グッバイ〜』を先に見て原作の執筆背景を知ってしまうと、今作ではもう泣けなくなる気がしたので、どうせなら泣きたいなと思って、先にこちらを映画館で見ることにした。

字幕版で。英語版の声もそこそこ馴染みがある、というか、日本語版と英語版、声は似てると思うし、そんなに違いを感じてなくて、あとはもう堺雅人の声を選ぶか否か? だったんだけど、ユアン・マクレガー好きだしな、と字幕版で。でも、宣伝に積極的だった堺雅人が好印象だったし、ナイスキャスティングだと思うし、翻訳の違いも確認したいし、DVDレンタルリリースされたら吹替版も確認したいな。

『ネバーランド』を撮ったマーク・フォースター監督による、大人になったクリストファー・ロビンとプーの話、信頼しかない、と予告編のエモさを噛み締めてたけど…
うーん、やっぱり期待は超えなかったかな。充分満足はしたけど、ベタだなと感じる部分が多くて、プーたち不在のシーンが少々退屈だった、まあこの手の実写映画、名作の続編とはそういうものかもしれないけれど。新規性を示すためには基盤となる安心感、平凡さが必要とされる、というか。

冒頭、ティーパーティーの様子、なんだかアリスみたいだな、ぬいぐるみの毛並みと蜂蜜のミスマッチ、大丈夫かしらん、と思ってたんだけど、じわじわと100エーカーの仲間たちに会えた、ああ再会できた、という実感が湧いて、グッときた。

イーヨー! 大好きだ!

クリストファー・ロビンとプーの別れ。たぶんこれ、原作者ミルンが息子のために書いたメッセージだよな、でも、はたして息子はこの結末を読んだんだろうか? この台詞だけ説教みたいというか、ちょっと浮いてるんだよな、『グッバイ〜』早く見たいな、とはいえ良いシーン、アニメ版も良かったけど、なるほど、ここから始めるのね、などと思考が飛びかけたんだけど…

ページをめくる演出、ちょっとくどい感じはしつつ。

本来、クリストファー・ロビンの出征の章とすべきところを「イブリンの自立」としたあたり、マイルドだな、ディズニーだな、男の戦争の話を女の社会的精神的自立の話にすり替えて逃げるなよな、アメリカ映画だな、と思ったりして。
というか、バスで出会ったとき、イブリンは仕事して自立してたんじゃ? 自立って言葉選び、引っかかるな、とか。でも、戦争によって寂しく悲しい思いをする人々、残される妻子を描いたのは良いことか、とか。いろいろ。

戦争から帰ってきて商社に入社、なんとなく『不毛地帯』を連想してしまった。はたしてクリストファー・ロビンは戦場で人を殺したんだろうか。悲壮感がないのは良いのか悪いのか。
ユアン・マクレガーといえば、『人生はビギナーズ』が好きだったので、あれくらい繊細で倦み疲れた大人になってても良かったんだけど…生気がなさすぎてもダメか。戦争が庶民にとって当たり前だった時代背景もあるか。
数字にかかりきりのクリストファー・ロビン、戦争帰りということもあって『星の王子さま』を連想。数字で物事を図る姿は、大人になったことを表す定番の描写なんだな、とか。

ウィンズロウ氏、人当たりの良さのわりにやべえな、と思っていたら、「本物の男たちと仕事がしたい、女ともね、つい忘れがちだ」という台詞に加えて、首狩りのリスト、言葉にはされなかったけど、真っ先に解雇されるのは黒人たちと示唆する画面、なかなかアグレッシブな描写に感じた。女性差別、人種差別をする人間は悪人だと言外に…けっこう思い切った描写に思えた。でも子供の頃に見てたら全くピンとこなかったかも。

娘に嫌われたくない父親、ハリウッドが執拗に繰り返し描いてきた男の姿、ああまたかと、ちょっともう飽き飽きしている、嫌われたくないなら相応の振る舞いをしろ、と思ってしまうんだよな、
娘に勉強ばかりさせて、良い学校に行くのが幸せだと説き、娘の望む本がどういうものかもわからない、ありきたりな描写で少々退屈してしまった、でも、戦争と仕事のせいで、娘とどうやって過ごせばいいか、知らない父、という説得力は感じられた、
「なにもしない は なにも生まない」ウィンズロウ氏の言葉を自分に言い聞かせるように娘に説く、決定的、変わってしまったクリストファー・ロビン、自分の経験した人生を子に背負わせようとする、負の歴史ってこうやって継承されていくんだな…とか

夫の仕事を理解しない妻の描写、台詞にも新しさが見出せなくて、ベタだなと。
こういう描写を見るたびに、いま働かなきゃ大切な仲間がクビになってしまうから踏ん張りどころなんだ、という、この一言がなぜ言えないんだ、と思ってしまうんだよな、事情を聞いたら、あんなに優しい妻なんだから、きっと配慮はしてくれるでしょうに、と。脚本が整理されていて、スレ違いの原因が明確だからこそ、歯がゆい気持ちになる。
男性は仕事、女性は家事、と決まってた時代に、妻が仕事の大変さを理解してくれない、夫が家事の大変さを理解してくれない、と苦しさを垂れ流す不毛さを思う、知る由もない相手の事情を察することなんてできるわけがなかろ、理解してほしいなら互いに情報交換して相談しろ、と、20年前から思ってるので、見たことある風景だなと、ちょっと退屈してしまった、
退屈というか、あ、父娘の関係だけでなく夫婦の関係もベタな描写で済ませてしまうのか、という物足りなさかな。

とはいえ、差し挟まれるプーのイメージ、100エーカーの森でクリストファー・ロビンを待ち続ける姿、エモい…

お隣さんがやりたがってたカードゲーム、どういうゲームなんだろう。クリストファー・ロビンの断り方、やっぱり、仕事が忙しいのでごめんなさい、の一言がなぜ言えない?と思ってしまって、うーんんん、あんまり応援できる主人公像じゃなかったのが泣けなかった理由のひとつかも。堺雅人の声ならお人好しっぽさ、優柔不断っぽさが増して気にならなかったのかもしれないけど。説明できないくらい余裕がないんだ、勘弁してくれ、勘弁してやってくれ、と同情したかったし、共感したかったのかも。

溢れる蜂蜜、うわあああ、もったいないし掃除が大変、虫がきそう、とか。心配しなくてもいいことを思ってしまった。

そしてプーと再会、こうして見ると、プーの困った行動、幼児のそれそのもので、振り回されるクリストファー・ロビンは娘が3歳を過ぎるまで戦場にいたせいで子育て未経験なんだ、子供の扱いを知らないんだ、自分の少年時代だけでなく、子供がどういうものかを忘れてるんだ、なるほどな、と思って、ちょっと面白かった。妙な楽しみ方をしてる自覚はある。

崩れる棚、あああああ、と。片付けるの大変だ…あれイブリンが修理するのかな、きっつ、夫に留守番を任せたら家が無茶苦茶に…大丈夫か…とか心配しなくていいことを。なんだろ、ストレス感じたくない部分でストレス感じてしまったのが残念。プーとクリストファー・ロビン、やっぱりどこか似ている、ということなのかもしれないけど。

ロンドンの街、駅で、風船を買って、列車に。いちいち良い台詞、小説で味わいたい気持ちに。見たものを言うゲーム、困るな、でも愛しい。

はるばる別荘までやってきたけど、妻子とは会わないんだ? と思ったりして。わかるけど、納得いかないんだよな、
今はプライベートモードじゃないから、ソレどころじゃないから家族と会わない、プーのこと説明できないから家族と会わない、会えない、ということなんだろうけど、その心理を自明のこととして描くことに引っかかってしまう…
あれかな、家族を放ったらかしにして一人の時間を持つことができる、家族を遠目に眺めることができる、子供をパートナー任せにできてしまう、そこにある種の特権を感じるからかもしれない。
ホントに家族家庭家事と向き合いながら仕事と板挟みになってるなら一瞬でも家族と会える隙があったら会うと思う、というか会わざるをえないと思う、会うのが当たり前で会わないで休むという冷静な選択ができないのが余裕のない状態だと思う、働く母親あるあるかな、でも父親だって、どうせ板挟みを描くならそういう辛さ苦しみを描いて欲しかった気がする、
会わないと決めたらとにかく会わない、仕事一筋人間の描写としては正しいんだろうけど、ほとんど喧嘩別れした妻を覗き見ながら、美しい人だね、そうだ、と確認する、そんな場合かと。もっと切羽詰まってるなか、そういうひとときをフト持てたという描写なら、気にならなかったのかもしれないけれど。
女性主人公の映画がブームのいまだからこそ、働く男性の描写をベタで済ませて欲しくなかったのかもしれない。

そして、扉を通って100エーカーの森へ。霧。ズオウとヒイタチの原語版の発音、初めて知った、ヘッフォラント、だからエレファント、ゾウのイメージ、日本語訳もズオウなのね!と初めて理解して字幕版で見てよかったなとしみじみ。ヒイタチはイタチなのね。
コンパス。Nは北。足跡。同じところをぐるぐる。友達じゃない。君はズオウ? つらっ。こわっ。ズオウとヒイタチなんかいるわけないさ、どんどん子供に戻っていくクリストファー・ロビン、あざといけど、良かった。

落とし穴、泥水の中に浮かぶクリストファー・ロビン、大丈夫かよ、あの水飲んだのか、と同調しなくていいところで同調してしまって、ちょっと引いちゃったけど。

橋の上から小枝投げ。イーヨー! 最高だった…最高だった。イーヨー大好き…もうね、イーヨーがこんなに活躍するなんて予想外で嬉しすぎた、あのしょぼくれたデザインも良い、クリストファー・ロビンによって小脇に抱えられた姿よかった、ぬいぐるみ欲しい。

風見鶏。ズオウと戦うフリをするクリストファー・ロビン、子供に戻ったような、滑稽で、大丈夫か、って感じなんだけど、アシストしてくれるイーヨー、可愛い。騙される仲間たち、愛しい。

どこでもない場所、nowhereでの、プーとの再会。「君がここに来る時はいつも晴れてる」味わい深い…「ごめんね、僕はおつむが小さいから」「プーは心が広いんだよ」最高のやりとりでは? ノータイムでこんなステキなことを言ってあげられるクリストファー・ロビン、最高の友達では?

寝過ごしたことに気付いて慌てて帰っていくクリストファー・ロビン。
自転車に風船を結び付けて。妻子に見つかって。だから前日のうちに会っておけば良かったのにと、でもまあ会ってたら家族サービスで抜け出せなかったわな、しかし妻の心は明らかに離れて…そりゃなあと…どうすんだこれと…

遊ぶ、ということ、なにもしないということを知らない娘マデリン、ちょっとわかる、ああいう子供いる、という描写…勉強ばかりだから遊ばせてあげたい、というわりに、妻もとい母イブリンは娘に遊び方を教えてあげていないんだな、たしかに、ああいう母親もいる…
しかしよく考えるとマデリンが寄宿学校暮らしなら、イブリンは普段ひとりで家にこもりきりなんだろうか、本当になんていうか、きつい、悪い意味でのあるある家族だな…

書類カバンの中身を入れ替えていたティガー、本当に困ったやつ! しかし鞍をつけられたイーヨー可愛い。主張するプー、プーらしくねえな?と思ったけど、クリストファー・ロビンと再会したことで成長したと思えばいいのか。

列車に乗ったクリストファー・ロビン、見えたものを言うゲーム、すっかり子供心を取り戻していて、グッとくるものがある。

しかし、これひょっとすると冒頭がピークだったんじゃないか、どう解決するのさ、と不安になったりして。

テニスコートで赤い風船と遊ぶマデリン、いかにも一人っ子だ…そしてプーと仲間たちとの出会い、微笑ましかったな…マデリン、賢い女の子で良かった、主人公の器だ、
そして書類を届けに…本当に心踊った、ああこれ、この映画は、女の子のためのプーさんなんだ、と理解して、ものすごく感動した。いま実写化した意味を感じられて良かった。
まあ、男の子のための物語を女の子のために書き換えるようなリブート企画の乱発には危惧も感じているので(『リトルプリンス 星の王子さまと私』は子供を映画館に連れていく母親が楽しめるように、という背景も感じて父親不在に悲しくなったり…『ゴーストバスターズ』も『オーシャンズ8』もめちゃくちゃ楽しんだし嬉しかったんだけど、一方で現在を生きる男の子のために創られた新作が少なくないか、大丈夫か、新たな不公平感を生まないか、と心配したりもして)、
父から息子へ、という物語を改めて見たかった気もするし、たとえば、娘ではなく、姉弟か兄妹にプーを引き継ぐ形にして、男の子が見ても女の子が見ても楽しめるような工夫をして欲しかった気もする、(『ジュラシック・ワールド』に登場したのは男兄弟で、どうして恐竜好きな女の子を登場させてくれなかったのかと悲しくなったりした、せっかくのリブートなのに、とどうしても思ってしまう)

でも、そもそもプーさんって、一人っ子のための物語なんだよな。一人っ子がぬいぐるみの友達と自分だけの空想世界で遊ぶという物語…だからまあ、この形しかなかったのかな、とか。これ、モデルになった、原作者ミルンの息子の人生も反映されてるのかな、だとすれば、家族構成は変更できない部分だろうしな、とも。

置き手紙も良かったけど、列車のシーン、最高だった、あのコンパートメント、どうしてもハリーポッターを連想してしまうんだよな、イギリスだ…と思う。
「なにもしない は なにも生まない」父から聞いた言葉を繰り返すマデリン、「なにもしない は 最高のなにかにつながる クリストファー・ロビンが言ってたよ」プーによって父の言葉が訂正される、この巡り巡る感じ、良かった、上手い。
見えたものを言うゲーム、ピグレット、ティガー、イーヨーに見えるもの、それぞれ違う、クリストファー・ロビンの内面の奥行き、子供の感性の奥深さが垣間見えたようで良かった。

ゴルフに行ってたらしいウィンズロウ氏、うわあ。いちいち台詞にしないのがなんとも言えんかった。

ロン・ドン、という字幕、良かった、「それがロンドンよ」と父を思わせる口調のマデリン、良かった。両手いっぱいにぬいぐるみを抱えた少女、はちゃめちゃに可愛かった。
タクシー代は払ったのかな、新聞を台無しにされてしまった新聞屋が気の毒だったけど、喋るぬいぐるみ、あんたも見たのか、という話に繋げてくれたおかげで、あんまり気にならなくて良かった。
こういうちょっとしたことで印象が変わるの、本当に不思議。

置き手紙のトンケン、で、娘がプーと一緒だと気付くクリストファー・ロビン、良かったなあ。なんかもうこのへんになるとプーの実在を疑わなくなってきてた。しかし会社飛び出してしまってどうすんのかなと。どこに着地するのかなと。

ヒイタチ、ウーズルをウィンズロウと重ねるあたり、もう感心しちゃって。
トランクに隠れる、ティガー困ったやつ、イーヨーの「尻尾は取れるものですよ」あの声と敬語の翻訳にきゅんとしてしまった、
夫の話に目を剥きながら車を飛ばすイブリン、フロントガラスに飛んできた喋るぬいぐるみたち、アッサリと解決してしまう夫婦の齟齬。
「よろしく、"僕の妻のイブリン"」イーヨー!すき。

散らばる書類。なんだか悲しくなってしまった、せっかく頑張ったのにねと…マデリンを見つけたクリストファー・ロビン、仲直り。でもどうするの?と思っていたら。

会議室に乗り込んで、まさかの解決策の提案。グラフを逆さまにして、いま旅行に行くのは富裕層ばかり、しかし全社員に有給休暇を与えて、旅行鞄を安く手に入りやすい価格にすれば、これだけの人々に旅行鞄が売れる!
真理だ…力業だけど、よくできた脚本、と思うと同時に、お金があっても消費促進されるような暇と余裕がなくちゃ意味がない、いまの日本だ…となんだか気が抜けてしまった。
ウィンズロウ氏を指して、あれがズオウ? おまえはズオウだ、ズオウって? というやりとり、ちょっとムズムズしてしまったし、いかにも子供向け、物分かりの良い理事たちだな、と少々呆れてしまったけど、こういう着地点か、なるほどな、と。

家族三人で100エーカーの森へ、ティガーと飛び跳ねるマデリン、可愛い…イブリンの描写が乏しかったのが残念だった、どうせならクリストファー・ロビンとロマンチックに踊る姿をもう一度見せて欲しかった気がする、しかしプーと同じ赤いセーターを着たクリストファー・ロビン、微笑ましかったし、

最後の最後、三度目、またあの場所へ。巡り巡る感じがしみじみ良かったし、寄り添うふたり、「プーのおばかさん」という慈愛に満ち満ちたセリフの良さを噛み締めることができて良かった。残念ながら泣けなかったけれど…良かったよ。

エンドロール、ビーチで歌、「busy busy busy」「なにもしない で 忙しい」聞き覚えのある歌がレトロに陽気なアレンジで。プー、ピグレット、ティガー、イーヨー、サングラスとビーチチェア、ああ宣伝素材にもなっていたビジュアルはこのシーンからか、と合点がいって。
これで終わりかと思ったら、もう一曲あって。退席しかけていたうしろの観客が座り直した気配を感じたこともあって、苦笑してしまった。最後の最後に盛りだくさんだなと。静かに余韻に浸りたかった気もしつつ。最後はあのテーマソングのしっとりアレンジで締め。

思い返せば、劇中でもっと歌を楽しみたかった気もするんだけど、まあ言い出したらキリがない気も。ティガーのテーマは良かったと思う、でもティガー、もうひと回りくらい大きなイメージだったかも。バネの音に強烈な懐かしさを感じられて、良かった。

プー他のビジュアル、妙にリアルなオウルやラビットといい、一長一短だなとは思ったけど、とにかくイーヨーにテンション上がってしまって、売店でぬいぐるみが売ってたら間違いなく買ってたと思う、それくらい理想のデザインのイーヨーだった、いまも買おうかどうか冷静に迷ってる、尻尾が外れるなら即決なんだけどな…

良い台詞、というより、やりとりがいっぱいあったので活字で読みたい気持ち。石井桃子さん翻訳の原作も改めて読みたい。
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