ケンヤム

暁に祈れのケンヤムのレビュー・感想・評価

暁に祈れ(2017年製作の映画)
4.8
暴力には二種類ある。
世界性を閉ざしそこに暴力の主体者を閉じ込めてしまう暴力と、逆に世界性を開きそこから解放する手助けをする暴力だ。
前者は暴力によるコミュニーケーションの放棄であり、後者は暴力によるコミュニーケーションの構築だ。
人間が暴力を手放せない動物だとするなら、後者の暴力を身につけるしかないのではないか。
ビリーにとってそれが、キックボクシングであり狙ったところに拳をだし、脚を振り上げるミット打ちだったのだ。
ミット打ちがこの映画ではある種主人公の鬱屈した内向的な生活を解放する瞬間として描かれている。
彼が同部屋のボンクラたちからリンチを受けた次のカットで彼はミットとサンドバックを打っている。
その時の彼の拳は統制された規則的な運動を伴っている。
解放とコミュニケーションの暴力はコントロールされて初めて、明確なメッセージを帯びるのだ。
彼の住む世界そのものを殴る。閉ざされた腐臭のするカビ臭いあの監獄を殴りつけるという明確な反抗と解放のメッセージを帯びるのだ。

この映画の遊びのシーンほど魅力的で美しいシーンは他にない。
枕投げをしている時、水の掛け合いをしている時の彼らは開かれている。
あのカビ臭い監獄のことなど忘れ、ただ今がそこにある。カビ臭い監獄などなんの意味もなさない。その輝かしい青春の付随物として、彼らにただ遊びの空間を提供しているだけだ。
誇り高き悪人は、誇りなき悪人を蔑みもしない。
彼らは、ただミットを打ち自身の世界性を殴りつけるだけだ。
その殴りつけた結果を褒めてくれるのは、未来の自分だけだ。
ケンヤム

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