晴れない空の降らない雨

スパイダーマン:スパイダーバースの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

4.6
 家族まわりの描写が弱い、キャラが渋滞、ラスボスが絵的にしょぼい、等々の難点があるものの、それを誤魔化して余りあるハイテンポのギャグとアクション、そして何と言っても斬新な映像表現に目がくらむ。デチューンされた疑似リミテッド表現によるアメコミ空間の映像的再現を軸に、カートゥーンや和製アニメも贅沢に共存させ、ポップアート的な色彩の洪水をスクリーンに引き起こす。シーンごとの意表をつく演出は即興性すら感じさせる。
 しかも、ここには主人公が趣味としているグラフィティ・アートとヒップホップという黒人カルチャーがごく自然に反映されている。つまり本作の主人公はアフリカとプエルトリコの混血黒人だが、最近の駄目なアメリカ映画によく見られるようなわざとらしいポリコレアピールをまるで感じさせない。審美的に自然な選択と感じさせるのだ。
 もちろん、本作が多様性を意識していない、あるいは無視しているわけではない。その逆であることは、各次元からやってきたスパイダー(ウー)マンたちの顔ぶれを見ればただちに了解されるだろう。だが、「アイデンティティの発見」というテーマが直接的に人種やジェンダーに向かうことはなく、この方面の言及は見事に存在しない。物語上の焦点は、マイルスの趣味・性向と社会規範の対立や、「スパイダーマンであることの受容」といった個人の問題へとズラされ、たくみに説教臭さを回避している。
 もっとも、かかるテーマを含め、グローバル最大公約数的な「話型」をなぞったストーリーは、映像表現の斬新さと釣り合っていない。「自己言及」「パロディ」で相対化するのも既にありきたりと化したし(ギャグとして面白くしやすいから多用されるのだろうが)、本質的に創造性がない。「大いなる力には大いなる責任が伴う」というセリフをクリシェ扱いするくせに、結局は本作もそうした「いつもの話」の仲間入りをしてしまう。究極的には、それで満足してしまう(もはや物語に多くを求めない)観客の問題になるのかもしれない。
 
 3DCGによって手描き2Dアニメーションが駆逐されたわけだが、今度は大作映画のアニメーション化、つまり「俳優以外は3DCG」みたいな状況になりつつあるなかで、「アニメーション固有の価値って?」的問いが関係者のなかで生まれていてもおかしくないと思う。それに対して色々な解答があるだろうが(典型的には「非人間キャラの話にする」)、それに対する新機軸を本作は打ち出せたのではないか。
 ポイントとして「情報量の多さ」を挙げてみよう。というのも、前回レビューした作品もそうだが、2Dアニメーションは「シンプルさ」を3Dに対する差別化戦略としてとりやすい。日本でも一部のスタジオや作家は描き込みを減らしつつ、「線の動き」というアニメーションの本来性に立ち返る路線をとっている。それに対して、本作は3DCGの膨大な情報量を維持したまま、その素朴写実主義の規範からは逸脱している点で新しい。それに何と言ってもシネコン向けだ。
 さらに、情報量の多寡は、都会派と自然派の差異としても重ねられると思う。つまり、本作の映像は、ニューヨークという雑踏とビル群とクラクション音とネオンのコンクリートジャングルにマッチしている。
 
 ここから本作の強みとして言えるのが、「アート」でも「ファミリー向け」でもないアニメーション作品である、ということだと思う。結局のところアニメーションはまだまだどちらかに二分されており、両者をまたぐ作品も中にはある、といったくらいだろう。つまり青年期や成人に照準を合わせたエンタメ作品がほいほい作られるのは、長らく日本だけだった(近年になって東アジア圏とくに中国の飛躍が凄まじいが)。
 そんなわけで、実写と3DCGアニメーションの間隙をくぐり抜けたアートスタイルを新たに切り拓き、10代半ば以上に照準を合わせたエンタメ作品として成功し、ディズニーとピクサーの標準的3DCGを押しのけてアカデミー賞を獲得するにまで至った本作。この出来事が1つの画期となるかどうかは、のちに続くクリエイターたち、作品たち次第である。