ケンヤム

15時17分、パリ行きのケンヤムのレビュー・感想・評価

15時17分、パリ行き(2018年製作の映画)
5.0
クリントイーストウッドはとうとう「運命」そのものをフィルムに焼き付けてしまった!

三人の英雄たち本人が本人役として、15時17分パリ行きの電車に乗るまでを再現していくわけだけれど、その途上、彼らのうちの1人がこんなことを言う。
「俺はなんだか大きなものに突き動かされているような気がする。導かれているような気がする。」
そして、遊ぶ。
まるで、運命と戯れているかのように彼らは遊ぶ。
行き当たりばったりに行き先を決め、予定になかったアムステルダムに寄り、フランスにも行く気になれずにいたのに急遽15時17分パリ行きに乗ることになる。
まさに、何かに導かれるように乗る。

運命に抗う人を描く映画は、腐る程ある。
この映画は正反対で、運命に導かれるがままに生きる人たちの映画だった。
抗える人なんて一握りで、運命に従うしかない人がほとんどだ。
抗う人が偉いと無意識に思っていたけれど、この映画を観て考え方が変わった。
運命を受け入れた平凡な人間こそ、真に自由だし偉大なんだ。

この映画の評判があまり良くない理由は、私たちの運命観に対する固定観念みたいなものがこの映画を観るとき邪魔をするからだと思う。
未来という概念が肥大化した現代では、過去や現在は未来の付随物にすぎない。
等価値であるはずなのに、私たちは成長とか競争という名のもとに未来を重要視しがちだ。
それを、寺山修司は「希望という名の病」と呼んだのだと思う。

この映画で、テロリストから乗客を救うという「未来」は、ホステルの階段を上がる女性従業員のパンツを覗く「現在」と同等に捉えられているし、学校でいたずらしまくっていた「過去」と同等に捉えられている。
運命という言葉を使わない限り、関連性は見出せない。

伏線を回収することだけが映画の楽しみだと思っている人にとって、こんなことは許されないのかもしれない。
しかし、これが現実なのだ。
テロリストは、物語にアクセントを加えるためにテロをしでかすのではない。
私たちの、生活の中で突如として起こるからテロリズムは脅威なのだ。

では、なぜこれほどこの映画に感動したのか。
正直に言えば、この映画で私は泣いてしまった。
それは、「彼ら」が「俺たち」と一緒だったからだ。
可愛い女の子がいればすぐ目で追うし、大事な時に寝坊するし、くだらないことばかり話して大事なことは照れてしまって話せない。
それでも彼らは、平和のために自分の身を捧げることを厭わない素直な人間であり続けた。
平凡であることは平和であることだ。
彼らは彼らの平凡を愛していたのだと思う。
三人で集まってバカをやる時間を愛していた。
だからこそ、行動できたのだ。
人間にとって大事なのは、行動すべき時に行動できるかなのだと思う。
彼らは、運命を信じてそれをやり遂げたのだ。

映画という虚構が現実を乗り越えてくる瞬間が好きだ。
この映画のラスト。
映画が現実を侵食し、現実が映画を侵食した。
現実と虚構の境目が曖昧になるあの感覚こそ、映画的体験だ。

なんだか、友達に会いたくなった。

自分の中で特別な映画のうちの一つになりそうです。
ケンヤム

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