まりぃくりすてぃ

人魚の眠る家のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

人魚の眠る家(2018年製作の映画)
1.1
いかにもフジテレビ+電通、な駄作。
まず思ったのは「こんな都心のこんな豪邸に住みやがって」。これを思いつづけた。住まわせる必要性が物語上まったくない。映画館に来てる私たち大多数の庶民に、「観てて心地よい」って思わせたいとか? 憧れさせたい? そういうのはテレビでだけやってね。  
主演二人(夫婦役の篠原涼子と西島秀俊)もテレビ仕様。すなわち、“俳優である前に芸能人”という臭みを消せない人々。港区だか千代田区だかの豪邸からあんたたち浮いてるよ。先祖代々の自民党支持者っぽさ(自信と計算高さと「圧倒的な鈍感さ」と少しばかりの気品)を俳優として作り出せてなくて、せいぜい田舎や郊外出身で世田谷のタワーマンションの上めな階でローンに圧迫されつつ勝ち組にだけはスマートに属してみせてる低俗な三十代夫婦(多少の成金)にしか見えない。あるいは芸能人そのものにしか。
やたらスクエアな音楽充ても、煽りの薬になってない。泣けるってどこで? 誰にも感情移入しようがない映画なんだから。幼い弟が終盤に死んじゃえばまだおもしろかった、というよりも、、ストーリーの良し悪し以前にやっぱり製作姿勢の問題だろう。
前にどっかで書いたけど、テレビドラマの主目的は「視聴者をそのチャンネルにつきあわせること。本音をいえば、大衆操作」、映画の第一の義務は「お金を払った観客を満足させること。とにかく対価をきちんと支払うこと」。対価として真っ先に求められるもろもろのリアリズムは、単なる努力目標じゃなく義務だ。観客の賢さがどれぐらいであっても。

子役たちはやるべきことをちゃんとやってた。
主演らをはじめ大人たちがだらしなかった中、端役ながら大倉孝二さんだけは「何かやってくれそう」な雰囲気を実力通りに発してた。“フツウにして特別”な個性をまじめに保ってるからそうなる。
松坂慶子さんと田中サンズイ民さんは、単に衰えてるだけのようにしか見えず駄作の底上げに失敗。お年寄りがそういう芸当できなくてどうするの?
逆に若い川栄李奈さんは、最近しょっちゅうこうして駄作の下支えばっかりやらされて災難。川栄さんは映画女優の才能確実にあるよ。
そうして川栄さんが“普遍的トレンド係”として演じた若女子が、ささやかなエモを創出しかけていた、、、が、男性目線でガサツに織られたドラマだから流れ的に彼女は徒花で終わった。


東京23区内の私の知ってる某家は、先代から続く豪邸だ。高級住宅街の中でも周囲と大違いな広い広い敷地を持ち、その上、庭園をほぼ完全に隠す厚いコンクリ塀の高さが尋常じゃない。なのに、庭のいいところにそそり立ってるんであろうギリシャの女神像らしき真っ白い造形物の頭の先だけが見事にチラ見えしてる。
そしてその家の子供たちは全員、学校でいじめられてるという。理由は、「豪邸に住んでるから」。────金持ちの多い都内でも、こういうことでいじめられたりするのがこの世のおごそかな真実なんだよ。フクシマもオキナワもどうでもいいとばかりに首都の都心の超一等地の豪邸で自分たちのことばかりでワーワーすごす内向きな荒唐無稽を見せつけることの、無意味。そもそも夫婦の離婚の経緯とかを丁寧にほのめかすとこからスタートしようよ。雑だよ。老母が謝るとか、プールの排水口だとか、それがどうしただし。

でも、頑張って動いたり止まってたりした子役たちに0.1点を特別にプレゼントします。