140字プロレス鶴見辰吾ジラ

君が君で君だの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

君が君で君だ(2018年製作の映画)
3.6
”Fallen Kingdom”

「炎の王国」とミスリードも甚だしい邦題をつけられた「王国の落日」を描いた超大作映画が各地のシネコンで上映されていると思うが、上映館数は多くないが、物凄く無様で哀しき「王国民」の物語が上映されている。

それが「君が君で君だ」である。

本作はオタク論やアイドル論、そして宗教論へと通じる深いテーマを大声でまくし立てるキャスト陣と真面目な顔をしてブラックコメディを展開することで発生する狂気と笑いの狭間を剥き出しにして描いている。

それにしても本作は精神衛生上ひどい!
まさに根競べになっている。
半端者は教信者しかいない世界に我々は放り込まれることとなる。舞台劇を意識した作りのため、キャスト陣の周囲に気を使わない大声演技のつるべ打ちっもブースターになって、とにかく居心地が悪い空間、夏の暑さとじめついた空間に放り込まれるのである。

本作の宣伝コピーが「この愛は純情か、異常か」と銘打たれているが、昨年公開された白石監督の「彼女がその名を知らない鳥たち」と呼応するように思えるが、そのベクトルでなく問いかけられる、愛の純粋性と異端性に振り落とされること必須であろう。もしかしたら邦画で「ララランド」や「500日のサマー」を製作するならば、本作のようなじめついて無様なモノに仕上がってしまうように感じた。

とにかく本作は根競べ。
「これは愛だよ!」と青春を応援する立場から
「こいつら異常者だ…」と後ずさりをはじめ
そして劇中の制御が効かなくなってくると
「勝手に愛してろ!」と匙を投げてしまう。

半端者の際にいるか、教信者として入室するか

いくらなんでも2択として破綻している。

それは舞台劇調であることの弊害として眼前に壁となって立ちはだかるし、逆に議論型映画として「オタク論」「アイドル論」そして収束すべき「宗教論」へと考えを巡らせるには適当だと思った。

社会的な正義感や通念性を捨て去り、教信者の国を作ってしまった悲劇的な人生の閉塞性に同情することすら勢いで失わせていく、本作のパワフルな部分は認めざるを得ないし、向井理とYOUの南米に上陸したキリスト教徒のような立ち位置から、嫌悪しある種の憧れに近いモノを抱いたりと、視聴者側のキャラがいたのも救いだった。

勢いと足し算式の制御不能なエモーションに共感でない同情と嫌悪を常に頭を反芻させる本作だが、キム・コッピの絶妙な顔立ちと片言の日本語という萌え要素をブースターとして、愛おしく思わせるライン取りの妙は見事だったと思う。

キム・コッピとYOUの狂信的に愛された者と愛されなかった者の分岐は「カリオストロの城」のクラリスと不二子的なニュアンスで配置していたのが印象的だったし、何しろキム・コッピの存在的可愛さの破壊力は確かだった。

最後がそうしてもくどく見えてしまったが、エンドロールの尾崎セッションの等身大的愛おしさが救済として充分だったとだろうと思う。