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君が君で君だの百合のレビュー・感想・評価

君が君で君だ(2018年製作の映画)
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君はどこにいるのか

「気持ち悪い」という評が目立ちますが、それはとても健全な感想でいいですね…と思う。前向きだわ。
松居監督の作品は『ワンダフルワールドエンド』しか見てないのですがあの頃はまあ投げやりでしたが上手になって…という感じです。いや作品自体は3年前からよかったのですが。
「異常か純情か」のアオリがつけられる本作品中の「愛」ですが、しかし考えてみればわりと身近な現象なことがわかります。わたしはこの感情に最適な言葉は「推す」だと思っていて、みんなもしょっちゅう言うでしょう「推してる」「私の推し」。いわゆるオタクミームからもはや人口に膾炙した「推し」ですが、本作品中で3人の男たちがしていることは紛れもなく「推し」なわけです。たしかに覗きやゴミの回収など誇張されているから反射的に「キモっ」が立つわけですが、例えば「推し」の好物(作中では辛ラーメン)を自分も食べてみたり「推し」の生活と同期した行動を取ってみたり、丁寧に分解していけばそうそう異常なことでもないわけです。
というかここまでほぐしてみても「そんなことはしない」と断言できる人は根本的にオタク気質でないことになるのでしょう。それはそれで気質の問題ですので、仕様のないことというか、実際そういう人もいらっしゃいます。憧れの感情を持たない人。
ただ松居監督が現代にこれを作ったということはやはり多くの人々にこういった「推し」の感情、「オタク気質」を見抜いたがゆえのことで、それが的外れでもないことは昨今のアイドル、アニメ、ゲームブームを見ているだけでわかるのではないでしょうか。まあ多くの人に共通する気質を誇張して「ほら、ほらな?」と言わんばかりに提示する監督意地がいいとは言えませんが…
さて本作品中の3人の異常者はしかし確実にわたし達の延長線上にいることを明らかにしたところでもう一つ考えるべきは彼らの連帯、彼らに充満するホモソーシャル的世界についてです。
ここも「オタク」を例にとって考えてみるとわかりやすいですが同じものを愛好している「オタク」どうしは簡単に連帯できます。ふつうに暮らしているだけでは到底仲良くなれなかったであろう相手と共通の愛好があるというだけで簡単に仲良くなれてしまうのです。作中の3人のうち2人は学生時代からの友人であったことが明かされますが、しかし彼らの連帯を支えているのも明らかに同一の愛好(姫の存在)なわけです。
しかし今回は愛好の対象が生身の女性だけにその扱いには敏感になるべきです。ただの仲良し男3人組のホモソーシャルを支える軸になるだけで女性が消費されるような物語では監督の明敏さを疑ったことでしょう。本作品では愛好の対象たる「姫」、ソンにもきちんと人称性が与えられ、幕引きの権限も付与されていたので安心しました。
しかし結局のところ本作品のキモである「愛」の実態について考えてしまいます。上記のように明らかになった多くのわたしたちが持つ「推す」という感情は「愛」ではないのでしょうか。「男3人」「姫」に第3の軸として入ってくる「ヤクザ達」役のYOUは「守るって、何を守ってんの?あんた達が守ってるのはソンじゃなくてあの部屋でしょう?」というような非常に鋭いセリフを彼らに投げつけますが、しかし多くのわたし達の生活はそのようなものではないでしょうか。続いていく日常に打ち負かされないように必死で自分を守って、そのために人々はアイドルやゲームやアニメを「推す」、「愛する」のではないでしょうか。わたしたちは所詮誰のことも守れない、自分のことしか守れないのです。そしてそのためにはフィクションどころか時には生身の人間まで消費してしまうような卑小な存在なのです。
一般に考えられるような「愛」とはどういうものでしょうか。「抱き締める程度」(尾崎)のこと?愛の言葉を囁くこと?慰めること?命を救うこと?それらにどれほどの相手の意志の尊重が入っているのでしょう。最近ですと安室奈美恵さん引退の時にお笑い芸人のイモトさんが言った「安室ちゃんが決めたことだから」という言葉が印象に残っていますが、我々が一般的に想像する「愛」は少なからず相手の意志の歪曲が入っています。イモトさんやこの3人が抱くような「推し」的「愛」にはそれが含まれません。どこまでも対象の意志を尊重する。その結果対象そのものを喪うことになってもそれを尊重する。そのような「愛」の徹底が二幕ラストのソン自殺未遂シークエンスに詰まっています。(わたしはこのシークエンスにとても共感的になっていて、それは結局のところ人は人を救えないという実感があるからです。相手のいる地獄を解消してあげることも出来ないのに生きることを強制する。この場合の救いというのは実際とても横暴なものだと思います。それでも生きていてほしいと思う時、わたしたちに許されるのは救うことではなく祈ること程度でしかないのです。そんな自己満足的な個人的な祈りよりも「愛」が勝った場合、あのような行動になるのでしょう。つまり唇をかみしめて愛の対象が命を断とうとするところを見つめるしかない。)相手の自由意志の阻害とセットの一般的な「愛」という実態がここでは明らかにされるのです。
このように極純粋なかたちで「姫」をとらえ尊重して「愛」していた3人ですが、いざ「姫」が彼らの姿を見たとき彼女は激怒します(当たり前ですが)。自分の盗撮写真を引き裂き、「私の何を知ってるの?」と叫びます。
このすれ違いはとても根本的で考えるに値するものです。3人はたしかに彼女の生活リズムから生理周期まで把握しています。この意味では彼らは彼女の「全てを知っている」。しかしそれらは無機質なデータでしかないともいえます。彼氏(王子、ヒモ)とどんなやりとりをしているかも知っているくせに、それが彼らに向けられることはない。彼女が人間として提示するアイデンティティの一部を彼らが受け取ってはじめて彼らは彼女を「知った」とするならば、彼らは姫のことを「何も知らない」のです。ここまで分類して考えるとまあ言いようの問題ともとれますが、突き詰めるとこれは「君の不在」という話になるのではないでしょうか。データを把握するだけでは君を知ったことにならない。けれどそれならばこのようなストーカー的生活を辞めてふつうに君に近づいて話をしたとしても君を同じように処理してしまう(つまり彼らが冒頭3人で盛り上がっていたようなファンタズムの押し付け)。結局僕たちは本当に君に至ることはできない。本当に君に到達することが「愛」だとするならばここでも「愛」は成立せず、あるのは彼らの愚直なまでの「推し」のみである。
しかしまあドラマトゥルギー上も仕方がないのですがこのような「愛」の実践は終わりを迎えます。そのやり方もとても考えられています。まず3人のうちで「姫」の元カレという異端な位置を占める「龍馬」が脱落。次に「ブラピ」なわけですが、これがとてもよかった。「姫」の髪を食べる「尾崎」(このシーン、画のインパクトからか「狂気」と評されていることが大半なのですが実は愛好する相手と同一化したいという願望はまたありふれたもので、モンテーニュも「二つの身体を持った一つの心」と書き記しているくらいなのですが、そういった同一化願望から溢れる相手の身体の取り込みのシーンと考えれば良いでしょう)に促され、「ブラピ」も髪を食べるのですが、切り落とされた髪の毛は同時に生きた人間の象徴でもあるわけです。それを口に含んだ(含めなかった)とたん彼は今まで無視していた「姫」の人間であること、人称性に気づき、あの国から脱落するのです。最後の「尾崎」ですが、これは典型的な洗礼のシーンで、なんともしようがなかったか…というのが正直な印象です。本当に邦画でも生まれ変わるための洗礼のシーン多いですよね。キリスト教国でもないのに。
一風変わった、しかしよく考えるとありふれた「推し」という「愛」の実践をコメディタッチで描いたのが本作品です。地獄のような室内劇はこのキャストでしか成立しなかったでしょうし、内容の浅い段階での受けいられなさを乗り越えて俳優陣は賞賛されるべきでしょう。観客の感情移入ポイントと進行を兼任した向井理が普通に好きでした。あと個人的に「体調どうですか?」「少し、切ないです」がとてもよかったです。
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