君が君で君だの作品情報・感想・評価 - 5ページ目

君が君で君だ2018年製作の映画)

上映日:2018年07月07日

製作国:

上映時間:104分

3.8

あらすじ

尾崎豊、ブラピ、龍馬。なりきり10年!君のことが大好きだから、君の好きな男になりきる。自分の名前すら捨てた男3人の物語が、ついに動き出す。 好きな女の子の好きな人になりきって、自分を捨て 去り、10年間彼女を見守ってきた3人の男たちの愛の結末を 描いた恋愛譚。

「君が君で君だ」に投稿された感想・評価

Msy

Msyの感想・評価

4.0
いったい何を見せられてしまったのだろう!

狂気を感じるも見入ってしまった面はある

心動かされそうになるも感動して良いものなのかと冷静になる

少し呆然としてしまった
のこ

のこの感想・評価

3.8
最高に狂気的で気持ち悪くて、なぜか彼らが愛しくって、ちょっぴり切ない。そんな映画。
「好き」ってやっぱり究極のエゴでしかない、でもみんなそれに縋って生きてる生々しさ、人間臭さが良かった。
R

Rの感想・評価

4.1
チラシや宣伝で謳っているような、愛とか純情とか異常とか、観ているうちに何も感じなくなった。

対象の全てを肯定することが、同化になって、同化でこそ自分たちを肯定しているように見えた。尾崎、坂本、ブラピの3人で一人であって、欠けては全てが崩れてしまう。

とんでもなく極端に言ってしまえば、誰にでもあるような話だと思う、なんて終着点に辿り着いたわたしは少し不安になりました◎

エンドで私も立ち上がって歌い上げたかった、
僕が僕であるために。
natuco

natucoの感想・評価

3.8
簡単に言えば男性版「勝手にふるえてろ」といったところでしょうか。。。
序盤は大笑い出来ていた全てに顔が引きつっていく狂気の終盤、エンドロールでは自分自身が搾り取られてカスッカスなのがわかりました
最初に発した感想が「向井理の手つきがヤバかったね、、」だったもの。核心に触れる気力なぞしばしなかった。

あと同行者とわたしとが揃ってダメ好きだったのでソンの愛されぶりには羨ましさしかないということで同意した。
クズバンドバンの高杉真宙くん、次はわたしのところでどうですか?
 かつて通っていた大学のフランス文学科は総勢66人のうち、男子44人に対して女子が22人だった。受講する科目は人それぞれなので、同じクラスといっても必ずしも仲がよくなる訳でもなく、男女比も特に意味を持たなかった。
 しかし22名の女学生の中にひとりだけ、おっとりした育ちのいい感じの美人がいた。入学して間もなく、同じ仏文科のクラスの男子学生のほとんどが彼女をとても好きになった。誰もが彼女と会えることを楽しみに通学していたと思う。もちろん当方もそのひとりであったが、多くの男子たちと同様に、彼女と付き合いたいというよりも、遠くから眺めていることで満足していた。それは2次元のアイドルを大切にするオタクたちの心理に似ていて、彼女の存在が心の中にある灯のように光と熱を与えてくれていた。しかし心の奥底で、いつかみんなに祝福されながら彼女と結ばれることを微かに夢見ている部分もあった。文学部だったので彼女を漱石の「坊ちゃん」に出てくるマドンナと重ね合わせ、いつしか男子学生は皆、彼女を名前ではなくマドンナと呼ぶようになった。
 この映画を見て、学生時代を思い出し、マドンナを思い出した。マドンナのいた4年間の学生生活は、マドンナのいない4年間を考えてみたとき、かなりマシな4年間だったと思う。本作品の3人の若者たちにとって、韓国人女性のソンはマドンナだったのである。マドンナは彼女でもなく、恋人でもなく、ましてや婚約者でもなく、マドンナはマドンナなのだ。そしてただ生きているだけで自分たちの心に灯をともしてくれる、あたたかい存在なのである。

 池松壮亮がいい。この世界に何の望みも持てなくても、彼女を見つめていることで生きていけるという若者独特の気持ちを、ストレートにではなく様々な行動や言葉、表情であぶりだすように表現する。物語が進んでいくのにつれて、彼らの気持ちがだんだんわかってくる。その気持ちは次第に、向井理が演じたチンピラにも伝わっていく。心に灯をともす存在は誰にとっても必要な存在なのである。
 必死で青春を生きた彼らの姿に、人生の切なさがこみあげてくる。人の心を上手に描いた佳作である。
じゅ

じゅの感想・評価

4.0
邦画を劇場で観る機会が増えてる、、

この愛は純情か、それとも異常か。
まぁ異常に見えた訳ですが、その異常の意味背景を推察するのが醍醐味みたいなところあるかなと勝手に。

何かしらの形でアイデンティティの確立に失敗してしまった、崩れてしまった男たちがひとりの女性の存在に(まこと身勝手に)何かを求める物語かな。

姫を守る兵士、あっちの世界と関わってはいけない、思い悩む姿もかわいい、全てを受け入れる、
などのセリフは間違いなく自分(と自分の役目・世界=アイデンティティ)を守るための発言なのかなぁと。

この3人をどう括ればいいか分かんないし一緒くたに狂気のストーカーで良いのかもしれないけど、あえて言うとすれば、尾崎は童貞初恋こじらせ青年、ブラピは熱情巻き込み系、坂本は元カノ未練タラタラ前に進めない男性。

ひとりの女性のことを男子校ノリからのアイドル型推し、そして神格化(姫化)という段階を踏んで、主人公たちが文字どおり"観て"いくことからこれは異世界の話ではなく割とこの世の中にある話じゃないかと妙な身近感というかリアリティを覚えた。

大倉孝二を観にいったら池松荘亮も満島真之介も振り切っててすごく良かった!ここまで振り切ったほうが演じやすいのかな、、
sawa

sawaの感想・評価

3.5
エンディングのみんなで歌ってる「僕が僕であるために」が良い

吉高由里子似のキムコッピちゃん「息もできない」の女の子だったんだ!笑顔がキュート!池松の尾崎豊一番キモかったけど一番可愛かった!
ky0r0

ky0r0の感想・評価

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■高評価の邦画を見る②
大多数のレビューから狂っていると想像しましたが、なんとも清々しい青春映画のようでした。
女を「人」として見ていないが、あくまで「ファン活動」であると理解。
3人で同じ部屋に住み、同じ目的を持ち、同じ瞬間を共有し、日々楽しく暮らしている。とにかく楽しそうなところがアイドルヲタ感満載。

※以下ネタバレあり※
ずっと不可解だったのが、部屋の盗聴はしているのに盗撮はしていない点。目視できる範囲内でOKなのか?プライバシー?ゴミは漁るのに?と、最後までこの謎は解明されない。
また、3人は常にベッタリで、おおかみこども的なじゃれあいが続く。後半になるにつれエスカレートし、ウホ展開が止まらない。が、これらも着地点はなく不完全燃焼。

終盤は、人間ドラマにありがちな「大丈夫」とかいう優しいセリフ。あーでた気持ち悪いやつ。と大幅にテンションが下がりましたが、「うっとりしてんじゃねえよBBA!気持ち悪いんだよ!」と、向井理。ありがとう最高に気分が良かった。
yuri

yuriの感想・評価

3.5
これを愛というなら、愛は狂気なのかもしれないと思った。好きとか通り越したあのキモチが愛なのか....?
序盤は、男性のこういう所が好きなんだよな〜っていうのが詰まってて、ずっとニヤニヤしてました(色々やりすぎだけど)。男同士の付き合いって、昔からちょっと憧れです。
百合

百合の感想・評価

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君はどこにいるのか

「気持ち悪い」という評が目立ちますが、それはとても健全な感想でいいですね…と思う。前向きだわ。
松居監督の作品は『ワンダフルワールドエンド』しか見てないのですがあの頃はまあ投げやりでしたが上手になって…という感じです。いや作品自体は3年前からよかったのですが。
「異常か純情か」のアオリがつけられる本作品中の「愛」ですが、しかし考えてみればわりと身近な現象なことがわかります。わたしはこの感情に最適な言葉は「推す」だと思っていて、みんなもしょっちゅう言うでしょう「推してる」「私の推し」。いわゆるオタクミームからもはや人口に膾炙した「推し」ですが、本作品中で3人の男たちがしていることは紛れもなく「推し」なわけです。たしかに覗きやゴミの回収など誇張されているから反射的に「キモっ」が立つわけですが、例えば「推し」の好物(作中では辛ラーメン)を自分も食べてみたり「推し」の生活と同期した行動を取ってみたり、丁寧に分解していけばそうそう異常なことでもないわけです。
というかここまでほぐしてみても「そんなことはしない」と断言できる人は根本的にオタク気質でないことになるのでしょう。それはそれで気質の問題ですので、仕様のないことというか、実際そういう人もいらっしゃいます。憧れの感情を持たない人。
ただ松居監督が現代にこれを作ったということはやはり多くの人々にこういった「推し」の感情、「オタク気質」を見抜いたがゆえのことで、それが的外れでもないことは昨今のアイドル、アニメ、ゲームブームを見ているだけでわかるのではないでしょうか。まあ多くの人に共通する気質を誇張して「ほら、ほらな?」と言わんばかりに提示する監督意地がいいとは言えませんが…
さて本作品中の3人の異常者はしかし確実にわたし達の延長線上にいることを明らかにしたところでもう一つ考えるべきは彼らの連帯、彼らに充満するホモソーシャル的世界についてです。
ここも「オタク」を例にとって考えてみるとわかりやすいですが同じものを愛好している「オタク」どうしは簡単に連帯できます。ふつうに暮らしているだけでは到底仲良くなれなかったであろう相手と共通の愛好があるというだけで簡単に仲良くなれてしまうのです。作中の3人のうち2人は学生時代からの友人であったことが明かされますが、しかし彼らの連帯を支えているのも明らかに同一の愛好(姫の存在)なわけです。
しかし今回は愛好の対象が生身の女性だけにその扱いには敏感になるべきです。ただの仲良し男3人組のホモソーシャルを支える軸になるだけで女性が消費されるような物語では監督の明敏さを疑ったことでしょう。本作品では愛好の対象たる「姫」、ソンにもきちんと人称性が与えられ、幕引きの権限も付与されていたので安心しました。
しかし結局のところ本作品のキモである「愛」の実態について考えてしまいます。上記のように明らかになった多くのわたしたちが持つ「推す」という感情は「愛」ではないのでしょうか。「男3人」「姫」に第3の軸として入ってくる「ヤクザ達」役のYOUは「守るって、何を守ってんの?あんた達が守ってるのはソンじゃなくてあの部屋でしょう?」というような非常に鋭いセリフを彼らに投げつけますが、しかし多くのわたし達の生活はそのようなものではないでしょうか。続いていく日常に打ち負かされないように必死で自分を守って、そのために人々はアイドルやゲームやアニメを「推す」、「愛する」のではないでしょうか。わたしたちは所詮誰のことも守れない、自分のことしか守れないのです。そしてそのためにはフィクションどころか時には生身の人間まで消費してしまうような卑小な存在なのです。
一般に考えられるような「愛」とはどういうものでしょうか。「抱き締める程度」(尾崎)のこと?愛の言葉を囁くこと?慰めること?命を救うこと?それらにどれほどの相手の意志の尊重が入っているのでしょう。最近ですと安室奈美恵さん引退の時にお笑い芸人のイモトさんが言った「安室ちゃんが決めたことだから」という言葉が印象に残っていますが、我々が一般的に想像する「愛」は少なからず相手の意志の歪曲が入っています。イモトさんやこの3人が抱くような「推し」的「愛」にはそれが含まれません。どこまでも対象の意志を尊重する。その結果対象そのものを喪うことになってもそれを尊重する。そのような「愛」の徹底が二幕ラストのソン自殺未遂シークエンスに詰まっています。(わたしはこのシークエンスにとても共感的になっていて、それは結局のところ人は人を救えないという実感があるからです。相手のいる地獄を解消してあげることも出来ないのに生きることを強制する。この場合の救いというのは実際とても横暴なものだと思います。それでも生きていてほしいと思う時、わたしたちに許されるのは救うことではなく祈ること程度でしかないのです。そんな自己満足的な個人的な祈りよりも「愛」が勝った場合、あのような行動になるのでしょう。つまり唇をかみしめて愛の対象が命を断とうとするところを見つめるしかない。)相手の自由意志の阻害とセットの一般的な「愛」という実態がここでは明らかにされるのです。
このように極純粋なかたちで「姫」をとらえ尊重して「愛」していた3人ですが、いざ「姫」が彼らの姿を見たとき彼女は激怒します(当たり前ですが)。自分の盗撮写真を引き裂き、「私の何を知ってるの?」と叫びます。
このすれ違いはとても根本的で考えるに値するものです。3人はたしかに彼女の生活リズムから生理周期まで把握しています。この意味では彼らは彼女の「全てを知っている」。しかしそれらは無機質なデータでしかないともいえます。彼氏(王子、ヒモ)とどんなやりとりをしているかも知っているくせに、それが彼らに向けられることはない。彼女が人間として提示するアイデンティティの一部を彼らが受け取ってはじめて彼らは彼女を「知った」とするならば、彼らは姫のことを「何も知らない」のです。ここまで分類して考えるとまあ言いようの問題ともとれますが、突き詰めるとこれは「君の不在」という話になるのではないでしょうか。データを把握するだけでは君を知ったことにならない。けれどそれならばこのようなストーカー的生活を辞めてふつうに君に近づいて話をしたとしても君を同じように処理してしまう(つまり彼らが冒頭3人で盛り上がっていたようなファンタズムの押し付け)。結局僕たちは本当に君に至ることはできない。本当に君に到達することが「愛」だとするならばここでも「愛」は成立せず、あるのは彼らの愚直なまでの「推し」のみである。
しかしまあドラマトゥルギー上も仕方がないのですがこのような「愛」の実践は終わりを迎えます。そのやり方もとても考えられています。まず3人のうちで「姫」の元カレという異端な位置を占める「龍馬」が脱落。次に「ブラピ」なわけですが、これがとてもよかった。「姫」の髪を食べる「尾崎」(このシーン、画のインパクトからか「狂気」と評されていることが大半なのですが実は愛好する相手と同一化したいという願望はまたありふれたもので、モンテーニュも「二つの身体を持った一つの心」と書き記しているくらいなのですが、そういった同一化願望から溢れる相手の身体の取り込みのシーンと考えれば良いでしょう)に促され、「ブラピ」も髪を食べるのですが、切り落とされた髪の毛は同時に生きた人間の象徴でもあるわけです。それを口に含んだ(含めなかった)とたん彼は今まで無視していた「姫」の人間であること、人称性に気づき、あの国から脱落するのです。最後の「尾崎」ですが、これは典型的な洗礼のシーンで、なんともしようがなかったか…というのが正直な印象です。本当に邦画でも生まれ変わるための洗礼のシーン多いですよね。キリスト教国でもないのに。
一風変わった、しかしよく考えるとありふれた「推し」という「愛」の実践をコメディタッチで描いたのが本作品です。地獄のような室内劇はこのキャストでしか成立しなかったでしょうし、内容の浅い段階での受けいられなさを乗り越えて俳優陣は賞賛されるべきでしょう。観客の感情移入ポイントと進行を兼任した向井理が普通に好きでした。あと個人的に「体調どうですか?」「少し、切ないです」がとてもよかったです。