映画を見るというのは、自分の普段の生活ではふれあうことがなく、考え方も違う人の生活をのぞき見するという行為でもあると思うのです。
土曜の午後、劇場は満席に近い状態。
ぶっちゃけ、土曜の午後に時間がとれて、1800円払って、カンヌで賞獲ったからちょっと観てやろうか、というひとは余裕がある人たちなんですよね。自分もそんなにいい暮らししてるわけじゃないですが、映画を見に来れるということは、まだ追い詰められてはいないのでしょう。
そんな人達が、社会から疎外されていく家族の映画を観るって、いったいなんなんだろう?と感じながら見てました。もちろん見てる人は、家族のことを笑いものにしようなんてしてないわけですが、なんだか気色が悪かったのが正直なところです。
万引きをくり返し、近所の少女と一緒に生活をしていた家族は、やがて警察に見つかります。
そこで家族に対して警察や行政が質問する
「このような生活が続くとおもってましたか」
「子供に万引きさせて罪悪感はなかったのですか」
という極めて常識的な質問が、家族の生活をみた後では、空々しく自分の頭の中を通過していくのはなぜなのか。万引きを平気でするというモラルが破綻している家族を、「のぞき見」していたはずが、自分たちの常識を逆に見つめ返されたような、のぞき見していた窓からにゅっと手を伸ばされたような感覚がありました。
考えてみれば、生きるって全然論理的ではないわけです。
この映画で言えば、父と母は血のつながりがない子供なんて放りだしていけばよかったし、松岡茉優とおばあさん(樹木希林)の関係も表面上おだやかですが、よく考えるとゾッとします。でも一緒に家族として生活している。
「行政ではこんな支援があるのに」と、常識では考えてしまいます。でも経済的支援があろうと、施設を提供されても、こっちのほうが楽じゃないですかと言われても、論理的にそっちが正しくて良いことかもしれないとわかっていても、きっと生きるってそういうことではないのでしょう。
それはきっと土曜の午後にこの映画を観に来た人達にとっても、というか常識という鎖が世の中をがんじがらめにしている今だからこそ、これからの生活のヒントになっていくのではないでしょうか。