ディー

万引き家族のディーのレビュー・感想・評価

万引き家族(2018年製作の映画)
5.0
是枝監督は著書で、映画の人物描写が薄い故にメッセージ性という安直な表現に頼らざる負えないから、メッセージ性という言葉を使う事が嫌いであると言及している。
それほど、観客に「思考力」を働かせ、人物からその人の人生や心を読み取り、様々な事を感じて考える事を期待をしているのだろう。
故に是枝作品全般に関して言えることだが、結論を出さない映画である為に、流し見で見ていて分かるほど簡単な映画ではなく、今作もそのような面では難しい映画だなと感じた。

私はこの映画に関しては幸か不幸か、ノベライズ版を先に観た事で、想像せずともそれぞれの人物のバックグラウンドがとても強く浮かび上がった。


リリー・フランキー演じる治の、成りたかった大人になれなかった、不器用な大人の姿(精神的にも未熟で子供のまま)は「海よりもまだ深く」に重なる。
松岡茉優演じる亜紀の(映像だとここが分かりにくかった気がする)妹に対する劣等感や、自身にも分からない悩みや孤独を抱える姿は「空気人形」に重なる。
安藤サクラ演じる信代は父性と母性という面では異なるものの、自身の過去に自分と闘いながら、血のつながりという概念と闘う姿が「そして父になる」と重なる。
城桧吏と佐々木みゆ演じる祥太と凛の、社会から取り残されながら、親との繋がりが希薄な中でも成長していく姿は「誰も知らない」又は「奇跡」と重なる。
そして樹木希林演じる初枝は今作で、これでもかと思うほど人間の汚さと人間臭さ、そこから滲み出る美しさを演じていた様に見えた。
そして全員に共通する事は、何かしらの形の愛を求めていた事。
母からの愛であり、父からの愛であり、子からの愛であり、元夫からの愛であり、誰かから、他人からの愛。
そこに血の繋がりは必要なのか。
時間では愛を受け取る事ができないのか。
法律として正しい事と人間として正しい事とは何か、という答の出ない面では「三度目の殺人」だろうか。
そしていつもながら、そこには厳しい生活や心の中には幸せの形が必ず存在しているという事も描いてある。
それぞれの人物を徹底的に描き、善悪ではなくただ人間の心を映す、正に是枝映画の集大成であった。

ただ、今回特に感じた他の作品との差異は2点。
1つが「生々しさ」であった気がする。
登場人物達が驚くほどに生々しく「人間」であった。
前述した初枝の演技もそうであるし、家の中のディティールにせよ、登場人物達の汗にせよ、食べ物を食べるときの食べ方まで、とにかく生々しかった様に思える。
この1点目に関しては映像版の特権である。
2つめが物語の後半に、第三者であり家族と対比する視点が登場するといったプロットであろうか。
世間一般からする「健全な視点。」
要するに大多数である我々の視点である。
これに関してはノベライズ版の方が分かりやすかった。


物語の中で、信代のものすごく印象的であったシーンが2つある。
恐らく多くの人が「すごい」と感じたであろう、髪を掻きむしりながらある一言を呟き続けるシーン。
一つの芝居であそこまで心の苦しさを表現し、観ている者の心を揺さぶる事が出来るのは、是枝監督であり、安藤サクラなのであろうと思った。
もう一つ、「じゃあね」のシーン。
「またね」、ではなく前の脈略からも分かる通りに決別を意味した「じゃあね」という言葉には確かに母であった事の力強さと、母である事を手放す事の切なさと人間としての力強さを感じた。


爽やかな涙を流すような映画でも、何かにカタルシスを感じる映画でもない。
ただ、様々な人の心と視点を感じることが出来ること。
これは映画ならではの特権ではないだろうか。

本当に結論が出てこない映画だけれど、考えれば考えるほど、切なく心に残り続ける映画であった。
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