Ksato

万引き家族のKsatoのレビュー・感想・評価

万引き家族(2018年製作の映画)
4.8
言葉の引用とセリフへの紛らわし方が上手いなぁと思っていた監督なので次はどんなのがくるだろうと期待していたら
谷川俊太郎訳のスイミーが出てきて、天才的だなと思った。
前情報ですごいと聞いていた細野晴臣の音楽も素晴らしかった。


某映画評論家が『わたしはダニエルブレイク』の日本版のような作品と言っていたがまさにそうだった。

法外で築かれる共同体、疑似家族という点では最近放送されていた広瀬すず主演ドラマ『anone』にも共通していると思った。
本来不可能な事柄の中から可能性を見出す様にはいつでも胸を打たれる。


『わたしはダニエルブレイク』では
事務手続き上の名前に、数字に、記号に、一体どれだけの私が反映されているのか?
という主題があったように思う。


本作における法と法外、真実の所在はどこにあるのか、というテーマは是枝監督の前作、『3度目の殺人』から一貫して扱っているテーマだった。

巷では映画の色々な側面が取り沙汰されているが、一つ確実に言えるのは
万引きの善悪といった表面的なパッケージよりも、そうしなくてはならない場所に弾かれてしまった人が存在するということが何より重要に思う。

そして誰も助けてくれない虐待や家庭環境がどこかにあるという現実。
虐待をする側の外向きの顔と、それを他人事のように見てはすぐに納得しちゃう外野の描写からは、昨今世の中を騒がせている報道の内容や、それを見て盛り上がる多くの人々を痛烈に風刺しているように感じた。

これは個人的な事だが、お金が全くない中学生の頃、知り合いのツテでそっちの道のおっちゃんに、屋台のバイトをさせてもらっていたことがある。
刑事みたいな人が見回りにくると、おっちゃんはリリーフランキーのあの顔をして、しらを切ってたっけ…なんてことも思い出させるくらい、役者の演技は絶妙だった。
そんなことを思い出しながら、個人的な体験と重ねて映画を見た。
仮にこういう話が世にピックアップされたとしても、「無法者が人件費のかからない子供を労働力にして〜」、だなんてもっともらしいことが言われるのだろうけど、まさにこの映画でも同じことが起こっていて、外野というのはいつも中身など何も知ってはいない。

もっともらしい声はずっと遠くの方で聞こえるだけで、誰も助けてはくれない。
むしろ社会性を備えていればこそ、より手を差し伸べることは困難になるのではないか。



物語後半
「あれ、私たちは何を信じてたんだっけ」、と魔が差すのはまさに社会が介入する時だった。
学のない人や弾かれた人にとっては
通常の道徳的な行為が必ずしも彼らの行為と常に一致しているとは限らない。
表現の仕方を知らなくて、処理の仕方を知らなくて、止むを得ずそうなってしまう。ということは往々にしてある。

そんなことはお構いなしに
「本当の家族だったらそんなことしないよね」と刑事。
このセリフを聞いて
なんて薄っぺらなセリフだろう、と思った。
こんなに軽く聞こえるのはすごい。
今までの時間がまるでこのセリフを軽くするための壮大な前フリだったのではないかと思ってしまうくらいに仕掛けが効いている。

映画を見終わった後もそれは続いている。
刑事が発した薄っぺらな言葉は、普段僕らが接するあらゆる薄っぺらな価値観の象徴のようなセリフだからだ。

刑事の言う本当とは何なのだろう。

前提とするものをどこに置くかで「本当」はいくらでも変わるはずだ。
大多数の社会的常識に本当や正義を置くのなら、そもそも導入の段階からこの家族自体が本当ではない。

では、はたしてそうだろうか。
「君のおばあちゃんは実はね」となんら関係のない人に言われた時に浮かび上がる像の輪郭と、自分が肌で体温を感じ「おばあちゃんにはなんでもお見通しだね」なんて交わした会話の、一体どちらに真実味を感じれるというのか。
それは第三者にわかり得ることか。第三者からさらに第三者へと歩いて回る情報、それらが構築する社会に「本当」はあるのか。

社会が「本当」だと信じているものを守ろうとすればする程、そこから漏れた「ニセモノ」は生きづらくなる。
そしてニセモノとされる人は実はたくさんいるはずだ。


「社会にとってどうか」がそのまま「私にとってどうか」に落とし込まれる必要はあるのだろうか。
はたしてそこに幸せはあるのか?
このクエスチョンは人生のあらゆることに付けれるかもしれない。

身近に転がっている定型文のような価値やシステム、法。それらを機械のように辿っていれば自然と本当の幸せにたどり着けるとか、ばっかじゃねーのと思う。


貧困や絶望の中にあって、血縁や社会的な環境も望めない同じ傷を持った者同士が刹那的に身を寄せ合う、、、
本来本当ではない共同性にも生み出せる絆が確かに存在するということを、この映画は示してくれている。
しかし悲しいかな、絆だけではそう長くは持たないのがリアルで、これは若かりし頃の恋愛なんかにも同じことが言えるかもしれない。

けれどそれでいいんだ、とその一瞬を信じ肯定するところに光を感じる。
刹那的なものでも
終わることが目に見えた筋書きでも
それを選ぶ、って話が好きだなぁ…と再確認した。

そして
失くす時にようやく気づく意味。失くすことでその意味性が明確になる悲哀は他方でダブルミーニングになっていると解釈した。
父からただのオジサンへ戻る時、振り返りながらも進む時、失ったものの大切さに涙する時、たしかにそこにあった場所へ戻った時…

前の環境に逆戻りしてしまった少女のベランダから覗く世界。そこには、戻ってしまった不幸と同時に新しく得ることが出来た視線という希望も映し出されているのかもしれない。

ラストシーンの登場人物達が向けるまなざしからは、彼らの別れが一家離散以上の何かを獲得したように感じられる。


失くす時にようやく
「たしかにそうだった」と
ハッとさせられることが、人生にはあるらしい。




映画は心理学的にもプロパガンダなどに使えばかなりの効果を発揮するだろう装置だが、こういった普段自分たちが信じてやまない視点や価値観に揺さぶりをかけれる映画はすごい。時にそれは楽しくなくていい、不愉快でもいい。
見た後に何かが変わってる。そうさせることができる人が表現者、芸術家なのだと思う。
後味の心地よさでしか作品の良し悪しを判断できない人や、そういったものに嫌悪感や不快感を示す人は娯楽作品だけ見て楽しめばいい。
是枝監督は、作り手としてかっこいいなと純粋に思った。

カンヌというものが町全体で盛り上がって、こういった作家性の強い作品を評価しているのは素晴らしいことだ。
長い間権力に支配され続けて革命を起こしたお国柄というのもあるのかもしれない。

日本映画にももう少し多様で作家性の強い人が生まれたらいいなと思った。
Ksato

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