百合

万引き家族の百合のレビュー・感想・評価

万引き家族(2018年製作の映画)
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「なんだろうね」

安藤サクラ素晴らしい。リリーフランキーは何をやってもリリーフランキーでそれにはそれの良さがあるが(彼のべらんめえ口調で救われるものはたくさんある)安藤サクラの馴染みよう。すごかったです。
子どもを産めばそれで母親なのか、産まなければ母親にはなれないのか。子どもを産み育てる資格のない人間達にも自動的に与えられる親権という欺瞞を真っ向から否定しているうえで、それでも安藤サクラに息子を手放させるのはどうしようもない現実の表象でしょう。「産みの親より育ての親」は理念として存在しても、「育て」を証明できない以上近代法では切り捨てられてしまうのです。
また少年の成長譚ととることもできます。父親とアイデンティティを混同していた幼い少年は妹が現れることによってはじめは嫉妬しますが次第に力弱き者として妹を認識しそれを守るようになります。その‘守り’の最も盛り上がるシーンが万引きする妹から店員の気をひくための無謀な逃走であり家族崩壊の引き金にもなるというのは作劇上非常によくできているといえるでしょう。しかも少年がそのような決意(妹に万引きなどさせてはいけない)をする助けになる老人柄本明にいたってはほとんど古典、童話的キャラ作りです。さて家族崩壊の引き金となる事件を起こし自分のアイデンティティを確定させた少年に対して、父親は追いすがるように接することしかできません。息子の相克とはいつもこのような形を取るもので、この点ではある種凡庸な少年のイニシエーションものと言うこともできます。
対して拾われてきた妹はより複雑な道程です。はじめリリーフランキーが率先して無責任にも連れ帰ってきた少女に難色を示すのは安藤サクラですが、次第に彼女と少女のつながりの方が強いように演出されはじめます。彼女らの同一性は風呂場で同じような暴行の跡を見つけ合うシーンでもっとも強調されますが、これも非常に一般的な母子像といえます(母子というものは父子よりもアイデンティティの混同が深刻なのです)。髪を切りこの家の子どもとなった後に浮かぶ「お兄ちゃん」という無邪気な呼び声に観客は安堵します。
子どもどうし、また家族の距離の縮まりは美しい海水浴のシークエンスで鮮烈な印象を与え、余白のある画面は否応なく観客の心にきます。ここの樹木希林はよかった。これをもって退場しなければどこで退場するのかというくらい鮮やかな演出。彼女は家族を眺めて何をつぶやいたのでしょうか。
水着を買ってもらい海水浴にも連れて行ってもらった少女のたどる道は明るくありません。諍いの絶えないらしい産みの親のところへ引き戻されます。理不尽な要求や暴力に反抗する力を多少身につけたような演出はされますが、ここにはおよそ救いがありません(凡庸なフィクションなら半年行方不明だった娘が帰ってきたなら多少改心するように作るのかもしれませんが、監督は家族の資格のないものにそれを与えることを徹底的にしません。また現実もその場合が多いでしょう)。少女は母親とのアイデンティティの隔絶も待たずに再び母親を失ってしまうのです。
安藤サクラはすべての罪をひっかぶり、服役するのですが、なんといっても取り調べのシークエンスは最高でした。過去の自分と同じように暴力に怯える少女を、過去の自分を救うように救うことを望んでいた彼女は、ただ血縁というしようのないもの一点で弾かれてしまいます。過去の己の救済という部分が親子関係には(善かれ悪しかれ)外せず、それによって母子は連帯し、同一化し、そこから己を引き剥がすことでイニシエーションを終えることができるのです。そこにはそれさえあればよく、母や娘という名前は必要ないはずなのですが、このような‘名付け得ぬもの’を世界は許してくれません。だからこその安藤サクラの「なんだろうね」なのです。
本作品の倫理観についてですが、万引きという特殊な題材上混乱するのかもしれませんが一貫したものがあると思います。というか万引きという手法を家族が連帯する手段に使ったからこそ家族が崩壊してしまった点にこの物語の哀切さはあるわけで、犯罪礼賛などでは決してありません(犯罪礼賛フィクションだとしても別に問題視するわけではありませんが)。ここは終盤リリーフランキーの取り調べ中、「おれに教えられることなんてそれくらいしかないから」を聞けばわかります。愛の手段は無限にあるはずなのに、現実で受け入れられないものを採用する者はやはり報いを受けるのです。
音だけの花火を見るシーンがやっぱり好きでした。見えないものだって美しいのです。
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