次男

万引き家族の次男のレビュー・感想・評価

万引き家族(2018年製作の映画)
4.5
僕が客として映画を観るときにとても警戒してしまうのは、ドラマの暴力性です。ドラマは暴力で、僕は簡単にほだされて、信じている正しいことーーそれがあるとするならだけどーーは揺るがされます。人を殺した、その殺人犯の過去に、同情に値する過去があって、その殺人に正当だと思えてしまうような事実があると、「人を殺してはいけない」なんて社会通念は、簡単に簡単に揺らいでしまいます。「彼には人を殺しても然るべき過去と理由があった、だから彼は本質的に間違っていない」なんてスタンスで映画に語りかけられたら、危うくそれを真に受けてしまいそうになります。

でも、そういうドラマが公平に語られることはきっと不可能で、作り手によって贔屓されて、ドラマを語ってもらえた登場人物だけが、その恩恵をあずかることになります。もうすこし言うなら、映画とか創作の枠を飛び越えるなら、現実でそれらを公平に知るということは、さらに不可能なことだと思います。

だから、ドラマは危険だし、公平性という意味でのルール・規律は、最重要であると思えるのです。それが、たくさんのことをないがしろにしてしまうとしても。

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なんて偉そうに自論を掲げても、僕はこのいかんともしがたさ、その行き詰まりに、いまとても苦しみます。たぶん僕がつらつらと書いたことは一般的に間違いではないだろうし、というかそもそも「別にそんなことわかっとる」と一蹴されるような常識の基本の根幹なんだろうけど、だからこの映画はみんなの心を傷つけて苦しめるのだなと思います。「一回そう割り切ったじゃん」って言いながら、でもそれで掬えない・救えないものの大きさを痛烈に味わって、やっぱり苦しくなります。

この映画の特徴は、この映画の主語が「この映画」ではなくて、「僕」とかだと錯覚するような、僕の目線かのような、繊細な脚本・撮影・登場人物たちの存在感だと思います。この映画は独善的になにかを語ることはしないで、あくまで「僕が」見て「僕が」思った、というスタンスを作っているように思います。

僕はバスの中のショウタくんの口元を見てしまったし、ひとりで遊ぶリンちゃんのその覗いた視線を見てしまったし、海とか花火とかふたりのセックスとか見てしまったし、「見ておいて知りませんとは言えない」ってそう思うし、「でもじゃあどうすれば」って、ああ、この映画は本当に的確に効果的に僕を苦しめてくるなあ。

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「大きな魚」は悪でしょうか。「大きな魚がかわいそうだ」って、ショウタくんの言った言葉が耳に残ります。というか、大きな魚とはなんなんでしょうか。大きな魚を追い出したあと、スイミーたちの生活はどうなるのでしょうか。平和なのでしょうか。彼らは正しかったのでしょうか。何事も安易に安直に語れないことだけが悶々と残って、思考は二周三周と同じところを巡って、結局僕は自己満足的に苦しんでるだけなんですけど。

「これ」を解決する・整理する方法なんて見当もつかないけど、この映画が優しかったのは、風呂がどんだけ汚くてみんなどんだけ底辺で犯罪者だとしても、羨んで羨んで羨んで羨んでしまうような愛の体現・美しい景色を見せてくれたことで、あまりの多幸感に泣いてしまうほどのそれに僕とか多くの人が憧れるようにしてくれたこと。何を変えたらいいかわからないけど、あの景色を手に入れるように生きていきたいと思えたこと。
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