シュトルム凸映画鑑賞記録用改め

万引き家族のシュトルム凸映画鑑賞記録用改めのレビュー・感想・評価

万引き家族(2018年製作の映画)
3.9
貧困ゆえの犯罪を描く映画と言えば「自転車泥棒」とか「木靴の樹」などが想起される。あるいは「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンもパンを家族のために盗んで獄に繋がれた。これらの作品に描かれる貧困は悲惨の極みであり、想像を絶するものがある。

しかし、この「万引き家族」はそういう社会悪が個人の悪を惹起するという社会批判の話ではない。リリー・フランキー演じる主人公の生き方のだらしなさは、牛乳の飲み方からゴミの捨て方まで、細部の描写において丁寧に描かれる。安藤サクラのキャラクターもまた、異様に倫理観に欠けた人物として描かれる。これは樹木希林も同様である。つまりこの作品に描かれる「大人」は一様に異様な性質を持った人たちでその然らしめる所として、万引き家族という生き方が描かれているのだ。

もちろん、彼らは優しい人たちだ。虐待される子供を連れ帰り、飯を食わせてやり、文句を言いながらも家族にしてしまう。しかしそれは誘拐でもある。「優しいけど、ダメな人だったんだよ」とは是枝が監督した「海街diary」の原作にもあるセリフである。恐らくは、是枝がリリーらの演じる主人公たちに注ぐ視線は、この海街diaryの四姉妹の亡父の評価と同じであろう。「優しいけど、ダメな人」「ダメだけど、優しい人」。

監督自身が政府批判、社会批判を描こうとしたのだと言っても(そう言ってないと思うが)そう信じることが出来ない理由がこれである。問題の有り様を個人でなく社会に丸投げしていたら、凡百のドラマになって、パルムドールは取れなかったに違いない。あくまでも社会ではなく個人に内在する問題として描いているという視点が重要である。

その上で、我々の視線が彼らを素通りする、ということを描いているのならば、その点では本作は立派な社会批評性を有しているといえる。柄本明演じる駄菓子屋の爺さんが「(万引きを)妹にはさせるなよ」と言って、お菓子を只で与えてやる。この柄本の爺さんは好人物なのだろうか?違う、と思う。子供達の万引きをずっと叱りもせず、見てみぬ振りをしてきた、万引き家族への視線が素通りする社会の象徴ではないだろうか。そんな人たちはいないと見てみぬ振りをする視線。

この映画で最も感動的な場面は、松岡茉優が覗き部屋の風俗で働き、そこに客として来た「四番さん」と初めて触れあい、四番さんが自分と接触して「穢れた」松岡の穢れを拭おうとするのを、松岡がいいんだよと言って抱き止めるシーンであろう。穢れてなんかいないんだよ、穢れた人なんて居ないんだよ。
松岡と四番さんはガラス越しで見つめ合い、自慰行為を見せ合う歪つな関係である。しかし、その歪つな関係においては、視線は素通しになっていない。松岡は四番さんの孤独がキチンと「見えていた」。実にうまいですよね、この対比。
ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」にも別れた女房が覗き部屋で働いているというシーンが登場しますが、あの作品の空気も連想したりします。

考えてみれば、是枝監督の「そして父になる」「海街diary」も他人(少なくとも部分的には他人の)が家族になる話である。テーマは一貫している。夫婦だって元々他人である。親子がどうしてそうであっていけない道理があるだろうか。

追記 「長男」の最後の台詞が、「ああ、そうだったんだな…」ってなる。納得が行ってしまう。ここも巧い。

追記2 リリー・フランキーが同じく屑親父を演じる齊藤工の「blank13」と続けてみると面白いかも知れないな。言いたいことは同じだと思う。