ナガエ

万引き家族のナガエのレビュー・感想・評価

万引き家族(2018年製作の映画)
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先日テレビを見ていたら、外国のメディア人が日本のメディアのおかしな点について議論していた。そこで呈される疑問は頷かされるものばかりだったのだけど、なかでも一番そうだな、と感じたことは、謝罪についてだ。

かつて日本の特派員だったアメリカの記者は、その番組の中でこう語っていた。公に謝罪するかどうかは、被害者が誰なのかによって線を引く、と。例えば話題に上がっていた、ドイツの自動車会社の不正は、環境そのものが被害者であり、また不特定多数の人々が被害者なのだから、公の謝罪は当然必要だ。しかし、不倫などは、被害者は特定の人物なのだから、その特定の人物に謝ればいい。その番組には他にも、ドイツ・中国のメディア人が登場していたが、皆賛同していた。

そう、日本ぐらいだろう、不倫して公に謝罪する国は。あれはなんなんだ、といつも僕は感じる。多くの日本人もきっとそう感じているだろう。あなたが不倫をしようがなんだろうが、僕らが謝られる必要はない。しかしそれでも、ああいう番組が成り立っているのは、「多くの日本人」よりもさらに多くの人たちが、そういう謝罪が必要だ、と感じているからだろう。そうでなければあり得ない。

同じ番組の中で、なるほどという分析がなされていた。日本以外の国では、「謝罪」というのは「今後も追求されること」を意味する。しかし日本では、「謝罪」は「今後追求しないでくれ」という意味になるのだ、と。確かにそういう雰囲気はある。僕自身は、「謝罪」なんて行為に昔から一ミリも意味を感じていないので、何かあっても謝らないで欲しいのだけど(それより、改善策を示して欲しい)、しかし大半の日本人は、何かあった時に、謝罪するという段階を踏めば、とりあえずそこで許してしまう、というような風潮がある。

僕はいつも、こういう風潮に対して怖さを感じてしまう。何故ならば、結局それは、「善悪は国民の気分によって決まる」ということだからだ。

何か大きな出来事が起こった時、何故それが起こったのか、誰に責任があるのか、二度と起こさないためにはどうしたらいいか、などについて議論することが最も大事だ、と僕は思っている。そして、その議論の果てに善悪が決まるべきではないのか、と思うのだ。「人が殺された」という出来事があった時、もちろんそのこと自体は許しがたいことなのだが、実行犯が本当に悪いわけではない場合もあるだろうし、動機に根底に社会構造の不備があるかもしれない。もちろん、どんな理由があれ許される罪ではないかもしれないが、しかし、人が何か重大なことを行う時、そこにはその人なりの理由があり、理屈がある。同じことが二度と起こらないようにするためにそれらを理解しなければ、起こってしまった出来事から何も学べないことになる。




最近、オウム真理教の教祖と幹部ら7人が死刑に処されたと報じられたが、オウム真理教が何故あれほどの事件を起こし、誰のどういう指示だったのか、ということが結局解明されないままだった、という指摘はずっと以前からなされていた。僕らは結局、オウム真理教を理解しきれなかったし、とすれば、また同じような出来事が起こった時に対処出来ない可能性にも繋がっていくだろう。

僕らはそうやって、まず善悪ではなくその出来事の詳細について精査し、それらを総合して善悪を判断しなければならないはずなのに、今の社会では、国民の気分によって善悪が決定してしまうので、その議論が成立しにくくなっている。もちろん僕は、法律が完璧ではないことも知っているし、裁判という仕組みに多くの問題があることも理解しているつもりだ。しかしそれでも、それが犯罪であるならば、出来事を精査し議論する場は、現状では司法の場にしか存在しないのだから、努力してそれらが正しく機能するように改善していくしかない。

国民の気分で善悪が決まる社会では、この映画で描かれていた「万引き家族」たちは、最低最悪の集団ということになるだろう。ネタバレになるので、彼らがどんな背景を持っているのかここでは触れないが、「万引き家族」たちは、社会的に許されない様々な罪を背負いながら生きている。

しかし彼らが犯している「法律に抵触する行為」のほとんどは、「誰かを守るため」あるいは「必死で生きるため」の決断故である、ということが丁寧に描かれていく。もちろん、だからと言って彼らの行為が許されるべきだ、などと言いたいのではない。しかし、彼らの犯罪行為は、ある面から見れば誰かを救っている。誰かのことを損なっているからこそ「犯罪」なのだけど、しかしその行為によって救われる人間が確実にいる。そしてそれは、僕には、弱者に優しくない社会で生きざるを得ない者たちのギリギリの決断である、と感じられる。




一方、この映画の中では決して断罪されることのない夫婦がいる。この夫婦の行為は、そもそも表沙汰になっておらず、「国民の気分」にさらされていない。さらされればどう判断されるか、それは状況次第だろうが、しかし一方でこの夫婦は「被害者」と認識されている。「万引き家族」たちが「国民の気分」によって「非道の悪」と認識されている以上、この夫婦の行為が許容される可能性はあるかもしれない。

しかし、この夫婦の行為は、「誰かを守るため」の行動でも「必死で生きるため」の決断でもない。彼らは、彼らの身勝手な判断によって、他人を傷つけている。僕は、単純に比較して、明らかにこの夫婦の方が悪いと感じるが、「国民の気分」はそう判断しないかもしれない。少なくとも、この「万引き家族」たちの日常の生活を知らず、彼らの行為を報道によって知るのみであったならば、仮にこの夫婦の行為が明るみに出たとしても、「国民の気分」は「万引き家族」たちの方をより酷い行為と判断するのではないだろうか。

その怖さを、映画を見ながらずっと感じていた。

最近、世の中の雰囲気で感じることがある。あらゆる事柄の判断が「0か100」「白か黒」「善か悪」になってしまっている、と。それは、「100でないなら0」「白でないなら黒」「善でないなら悪」というような、極端な判断がまかり通っているように感じられるところから思う。「100でない」にしても「60」や「40」や「20」であることはあり得る。しかし今の時代、「100ではない」というのは、イコール「0」ということになってしまっている。少なくとも、そう感じられる状況が以前より増えているように感じられるのだ。

この映画では、その境界を徹底的に曖昧にする。誰が悪いのか、どっちが悪いのか、何が悪い行為なのか――。そういう判断を無意味にする。法律的には犯罪だけど正しく見えること。世間的には間違っているけど誰かを救っていること。断罪はされないけど誰かを傷つけていること。「0か100」では判断できない様々な過去や背景や状況を描き出すことで、僕らの短絡的な判断にブレーキを掛けている、そんな感じもした。

どんな出来事の裏にも、それに関わった者たちの決断や理屈がある。そのすべてを知ることは、もちろん出来ない。でも、「0か100か」を決める前に、分からないものを保留するという勇気を持つべきなのではないか、と思うのだ。

内容に入ろうと思います。
「父」である治は、「息子」の祥太と一緒に協力して万引きをする。ある日、万引きをした帰り道、寒さに震えながらコロッケを食べていると、団地の廊下で震えている女の子を見つける。「コロッケ食べる?」と聞いて連れて帰ってきたが、「母」である信代に「それ食べさせたら返してきなよー」と言われる。「ゆり」と名乗った5歳の女の子を家に返そうとしたが、「私だって産みたくて産んだんじゃないわよ」と大喧嘩をしているのが聞こえてしまい、やはりそのまま連れて帰ってしまう。
「祖母」の初枝は年金暮らしで、そんな初枝を慕っている亜紀は風俗で働いている。治は日雇いの建設現場作業員、信代は工場でアイロンがけの仕事をしており、学校に通えていない祥太と、連れられてきた「ゆり」は、日中外で遊んでいる。
それまで通りの穏やかな生活が続くものと思われたが、テレビで「ゆり」(実際は「じゅり」だった)が行方不明であるというニュースが流れ、まずいことになったと感じる。家に帰るか?と「ゆり」に聞くが、彼女はうんと言わない。そこで彼らは「ゆり」の名前を「りん」に変え、髪を短く切った。
彼らの生活は、その後も穏やかなまま続いていくはずだった…。
というような話です。

いやー、素晴らしかった!やっぱり好きだなぁ、是枝監督の作品は。

そもそも僕は、是枝監督の、「気合いの入っていない、日常感を丸ごと出しているようなセリフの感じ」が凄く好きです。ホントに、その辺の家族の日常を撮影しているかのようなリアル感は、映画を見ていることを忘れさせるような感覚があります。俳優たちの、「これぞ演技だ!」というような気合いの入った演技もいいんでしょうけど、やっぱり僕は、めちゃくちゃ力が抜けた、日常を生きている感が満載の是枝作品が凄く好きだな、と思います。

この映画、「ゆり」を誘拐してくる部分を除けば、ストーリーらしいストーリーはほぼ存在しないまま話が進んでいきます。それでも、見させられてしまうんですね。その理由の一つは、彼らの関係性が謎めいているからだと思います。一見、三世代同居の家族に見えるのだけど、実はそうではない。彼らには色んな秘密があり、しかし冒頭の段階ではそれは明かされない。映画はストーリーらしいストーリーがないまま展開されるのだけど、その中で少しずつ彼らの謎めいた関係性が明らかになっていく。彼らのリアル感満載の日常の描写と、少しずつ明らかになっていく彼らの関係性のバランスがなかなか絶妙で、物語的には本当に何も起こらないのだけど、ずーっと見ていられると感じられます。

また、彼らの関係性が明らかになっていくと同時に、彼らの過去も少しずつ分かってくる。もちろん、はっきり描かれることはない。しかし話の流れで、徐々に分かってくる。それらは明らかに法に触れる行為である。しかし冒頭でも書いたけど、その決断の多くは、「誰かを守るため」か「必死で生きるため」のものだ。誰かを傷つけたり、何かを損なったりすることが目的なわけではない。ある程度そういう認識が共有されているからこそ、彼らはまるで家族のように、わちゃわちゃと楽しそうに過ごしていられるのだ。

彼らの日常を見ていると、何が「悪」なのか分からなくなってくる。法律が「悪」と定めたことが「悪」なのだ、という認識はあるし、ある程度それを受け入れなければ社会というものは成り立っていかないのだけど、しかしやはり法律だけでは掬い取れない部分もある。法律的には「悪」と定められた行為によってしか状況を打破できない、ということだってあるだろうし、社会的弱者であればあるほどそういう状況に直面することにもなるだろう。そういう、僕らが普段見ずに済んでいる現実を、この映画は浮き彫りにしていくのだ。

予告でも流れているこの言葉が非常に印象的だ。

『捨てたんじゃないんです。拾ったんです。捨てた人ってのは別にいるんじゃないですか』

多くの人は、目についた「悪」を断罪する。そもそも「悪」を断罪する権利など、個人には存在しないと思うのだけど、「国民の気分」によって善悪を判断する日本では、その権利があるという幻想がまかり通ってしまっているように感じられる。目についた「悪」を断罪する一方で、僕らの世界には、知ろうとしなければ知りえない「悪」もたくさん存在する。それらは、知らないが故に断罪しない。うまく説明できないが、その不公平感みたいなものもいつも感じているし、この映画を見ながらも感じていた。

世界はわかりやすくない。だからこそ、踏ん張る価値がある。なんとなく、そんな風に思える映画だった。
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