ナガエ

ゲッベルスと私のナガエのレビュー・感想・評価

ゲッベルスと私(2016年製作の映画)
-
『今の人たちはよく言う。
もし自分たちがあの時代に生きていたら、もっと何かしていた、と。
虐殺されたユダヤ人たちを助けたはずだ、と。
彼らの言うことは分かる。
誠実さから出た言葉なのだろう。
しかし彼らも同じことをしていたと思う。
国中が、ガラスのドームに閉じ込められていたようなものだったのだから』

なんと想像力に欠ける発言だろう、と僕は思った。僕も、彼女と同じく、「彼らも同じことをしていたと思う」という意見に賛成だ。

ナチスドイツでヒトラーに次ぐナンバー2だった、宣伝大臣のゲッベルス。そのゲッベルスの元で働いていたブルンヒルデ・ポムゼル。撮影当時103歳だった彼女が、カメラの前で当時のことを語る。

彼女の語り口で印象的だったのは、ゲッベルスについての語り口だ。

『上品でスーツの着こなしなどもビシッとしていた。
ただ、僅かに足を引きずっていた。
その姿は、少し可哀想だった。』

『オフィスではいつも紳士で、節度を失うことなどなかった。
ただ1度だけ例外があった。誰かを怒鳴っていた。
誰もが信じられなかった。
それ以来1度もない。
本来冷静で、自制心のある人よ』

これらは、捉えようによっては「ゲッベルスを良く評価している」と受け取れるだろう。彼女はこのような表現を随所に挟み込む。

これらの発言をどう捉えるかは、人それぞれだろう。「ゲッベルスなんかを褒めるとはけしからん」と受け取る人もいるだろうと思う。ただ僕は、彼女がこのような発言をするが故に、全体的に彼女の発言を信頼できる、という風に感じた。

何故なら、さすがに彼女も、「ゲッベルスを良く評価すれば、自分が悪い風に捉えられる」ということぐらい認識できると思う。なにせ、ヒトラーの腹心だ。ナチスドイツと言えばヒトラー・ゲッベルスというぐらいの存在だろうし、そんな人物を「褒める」証言をするメリットはまったくない。

そして、そんなメリットのない行為をしているからこそ、彼女は、少なくとも彼女の中で「正しい」と思うことを素直に喋っているのだろう、と感じた。

もちろん、人間の記憶は無意識の内に変わってしまうことはあるし、「ナチスドイツに深く関わっていた」という実感は、個人では抱えきれない大きなものなので、過去を忘れたい、起こった出来事を起こらなかったということにしたい、という力が働いてもおかしくない。

だから、彼女の証言は「真実」かどうかはなんとも言えないだろう。しかし少なくとも、「彼女自身は嘘をついている自覚はなく、彼女の記憶の中で正しいと思うことを喋っている」ということぐらいは信じてもいいのではないかと思う。

全体的に彼女の自己認識は、「自分は愚かなことをした。しかし、避けられるものではなかった」という風にまとめられるだろう。

『私も今の若い人たちのような教育を受けたかった。
私たちは、従順であることを求められた』

『あれが私の運命だもの。
あんな激動の時代に、運命を操作できる人なんているはずがない』

『どんな人であっても抵抗なんてできない。
体制に逆らうなんて不可能だった。
それをやろうとするなら、命懸けでないと。
最悪なことを覚悟しなければ。』

僕は、彼女が語るこれらの実感を「真っ当な意見」だと感じる。今の時代でさえ、先輩や会社の命令に逆らえずに、酷い行為をしてしまう事例は存在する。あるいは、森友学園問題の文章改ざん問題や、大企業での過労自殺など、組織の圧力に抵抗できない個人が犠牲になるケースもある。

今の、それなりに平和でそれなりに安全な現代日本でもこのようなことが起こってしまうのだ。ナチスドイツの支配下では、より過酷だったと言えるだろう。

しかし彼女の証言からは、その辺りの状況を理解するのがなかなか難しい。確かに彼女は、「ガラスのドームに覆われていた」とか「抑圧」などと言った単語で、「自分たちが一定の不自由の中に押し込められていた」と語っている。しかし一方で、ゲッベルスの直属になる以前に働いていた放送局(ここでも上司がゲッベルスだったことには変わりはない)の環境について、

『良い人が多かったし、居心地は良かった。だから気に入っていた』

とも語っている。つまり彼女は、その時代を生きるすべての人が感じていただろう、曰く言い難い「抑圧」を実感していた一方で、ナチスドイツナンバー2の直下にいながら、仕事上でその「抑圧」を実感することはなかった、ということだろうと思う。

あるいは彼女は、こんな発言もしていた。

『私は心が麻痺していたんだと思う。
それまでも人生の中で、恐怖を感じたことは何度もあった。
しかしあの時は氷のように冷静だった。
恐怖を感じる余裕すらなかったのだろうか』

「あの時」というのが何を指していたのか正確には忘れてしまったが、基本的には「ナチスドイツの支配下において生活すること全般」を指していたように思う。「恐怖」が常態になってしまっているが故に、それを認識することができないほどの環境だった、ということかもしれない。

映画の中では、彼女がゲッベルスの下でどのようなことをしていたのかあまり語られなかった。彼女は秘書だったそうなので、ゲッベルスの周辺のことをあれこれやるような立場だったのだろう。

また彼女は、封の空いた封筒を目の前に置かれ、「信頼してるから、中を見ないでくれよ」と言われた時のことについて、こんな風に話していた。

『信頼してくれている限り、私も裏切りたくない。
そんな自分を誇らしく感じていた。
好奇心を満たすより、信頼されることの方が大事なの』

どんな意図があってこの発言をしたのか、あるいは意図などなくただの思い出話なのか分からないが、全体的な主張としては、「だから私は、ゲッベルスが何をしていたのかよく知らない」と言いたいのだろうと感じた。

また冒頭では、

『与えられた場で働き、良かれと思ったことをする。
みんなのためにね』

とも言っていた。これもまた、「少なくともその当時は、自分の仕事は『良いこと』であり、『悪いこと』だと思ったことはない」という主張だろう。

この辺りの主張に関して、真実なのかを判断する材料は特にないが、僕は本当のことを話しているんじゃないかな、となんとなく感じた。

そしてその延長線上に、強制収容所に関する彼女の主張がある。これに関しては映画の中で何度も繰り返し言及されるので、彼女としてもどうしても主張しておきたいことなのだろう。

『強制収容所に関する噂を耳にした時、そんな施設に送られるのは、政治批判をするか殴り合いの喧嘩をした人物だろうと思った。
全員を刑務所に送るわけにはいかないのだから、まず収容所に送って矯正するのだろうと。
誰も深く考えてはいなかった』

『空になった村にユダヤ人を押し込めば、彼らも1つになれる。
私たちはその説明を信じていた』

『私たちは信じてもらえない。
みんな私たちが知ってたはずだと思ってる』

『ユダヤ人迫害の件は、誰も信じないけれど、私は知らなかった。
(終戦後)5年間(ソ連に)抑留され戻ってから初めて知った』

これらの発言も、特に根拠はないが、僕は信じていいだろうと思う。彼女はゲッベルスの部下として終戦を迎えている。給料は良かったそうだが、それにしても、さすがに強制収容所の実態を知っていたとすれば、そこに居続けられないだろうと思いたい。彼女はユダヤ人の知り合いもいたようで、そのような点からも、彼女の発言はそのまま受け取っていいように思う。

そしてむしろ、彼女の証言から、「ナチスドイツは、身近な人間にも強制収容所の実態を伝えていなかった」と理解できることの方が重要だと思う。その理由については可能性を2つ思いつく。1つは、「自分たちの行為が当然の如く当たり前であると思っていたから」。そしてもう1つが、「自分たちの行為があまりに酷い残虐なことであると理解していたから」。どちらの可能性もあり得るが、さすがに後者なのではないかなと思いたいところではある。

彼女の証言の合間合間に、ゲッベルスが残した言葉や様々な資料映像が流れる。その中で最も衝撃だったのが、ドイツが宣伝用に作った映画(公開はされなかったようだが)の、ユダヤ人を穴に放り込んで埋める映像だ。

痩せ衰え、街中で横たわっているユダヤ人を大八車のようなものに乗せ、滑り台のようなものに滑らせて穴の下に落下させる。穴の下にはドイツ軍兵士が待ち構えており、穴の中に隙間なくユダヤ人が詰め込まれるように配置していく。

という映像だ。正直凄まじいとしか感じられないし、人間が行ったことだとは思いたくないような衝撃があった。

映画の最後に彼女は、

『神は存在しないが、悪魔は存在する。
正義なんて存在しない』

と、喉をつまらせるようにして語っていた。

ネットで調べたところ、彼女は2017年に106歳で亡くなったそうだ。
ナガエ

ナガエ