Jeffrey

父、帰るのJeffreyのレビュー・感想・評価

父、帰る(2003年製作の映画)
5.0
「父、帰る」

〜最初に一言、隠喩だらけの宗教映画で有り、この世にたった5本しか作品を作っていないズビャギンツェフのデビュー作にして最高傑作、その独特の静かで強い魅力と魔法のような芸術的ヴィジョンに私は平伏した。21世紀ベネチア最高賞金獅子賞を受賞した中でもダントツに好きな映画である。これは神の不在、神を求めるロード・ムービーなのである〜


冒頭、ここはラドガ湖。水、炎、霧、緑。それらの神秘的な要素が誘う3人の旅。兄弟の日記帳、奴は12年ぶりに帰路した。無口で、不精髭を生やした男。謎で、横暴で、理不尽。島での釣り、海、反抗、不満、森へ。今、曇天から雨空へ、そして蒼穹の中の死体運び…本作はアンドレイ・ズビャギンツェフが2003年にベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を見事に受賞したデビュー作で、この度DVDにて久々に鑑賞したが傑作である。まじでこの作品BD化して欲しい。当時第60回ベネチア映画祭では北野武を始め、イニャリトゥらを抑え、グランプリと新人監督賞をダブル受賞した新たな監督の誕生に世界が湧いた。私もYouTubeに落ちている当時の授賞式の模様を見たが、惜しみない喝采を浴びていた。ロシア作品の受賞はそもそも1962年のアンドレイ・タルコフスキー監督の「僕の村は戦場だった」91年のニキータ・ミハルコフ監督「ウルガ」に次ぐ3作目で、しかも公式上映後15分間も拍手が鳴り止まなかったと言う本作は、監督一作目にしてグランプリ受賞と言う同映画祭始まって以来の快挙も成し遂げている。

その後も、「父、帰る」は世界各国の映画祭への出品、受賞を総なめにし、セザール賞やゴールデングローブ賞にも名を連ねた。39歳の新人監督デビュー作の、何が観客を捉えるのか、何が批評家を魅了するのだろうかと当時話題になったそうである。ちなみにベネチアで次に受賞したロシア監督はアレクサンドル・ソクーロフの「ファウスト」である。これでロシアは4作目になっている。この映画の凄い所っていうのは、見知らぬ父(仮の男性)がいきなりやってきて、いきなり兄弟を連れて旅に出ると言う点で、そこにはあらゆる疑問と少年たちの思いが観客に伝わり、物語に引きずり込まれていく事である。そもそも12年間どこで何をしていたのか、なぜ無口なのか、なぜ母と祖母は何も話さないのか、なぜ自分たちを湖へと誘うのか、謎が追加されるばかりである。この映画がそうなった理由の1つに、もともとのシナリオから余分な要素をことごとく排除したと言うことによる、ストイックでシンプルな強い印象を残す演出になったからだそうだ。

神話的あるいはキリスト教的なモチーフが巧みに配されたミステリアスな語り口、サスペンスフルでさえある父子の心理的葛藤や家族と言う根源的なテーマを今のロシアの中に描いた深い洞察による力強い人間ドラマが、国境越えて多くの人の心を揺さぶったとされている。ネタバレになるためあまり話せないが、この映画は答えを求めない作品になっている。この作品出てくるアイテム複数の事柄について言及がなされないのだ。それは全て父と共に突然現れ、そして消えてしまうと言う展開なのだ。それをエンドクレジットで、観客は静寂の中ひたすら考えなければいけない。そう、この作品は観客に考える時間をクライマックスに与えている。そしてこの作品は大絶賛とともにー部批判を受けた。それはタルコフスキーの十八番とも言える自然を叙事詩的に捉えた瑞々しい映像を持ってきて、ベネチアで最高賞を受賞してしまったからと言うことだ。静謐でエモーショナルな本作は、初監督とは思えない完成度である事は誰もが認めていると思う。

しかしながら、タルコフスキーの模造品で受賞しても…と言う評価も一定数いたようである。ここで少しばかり監督について言及したいと思う。ズビャギンツェフは、俳優志願だったそうで、テレビ局であるレン・テレビのディレクターに転身し、僅か数作を撮った後、この長編に挑んだそうだ。そのセンセーショナルな登場から、タルコフスキーの再来とも評されるが、本人はポール・トーマス・アンダーソンや北野武等の作品に衝撃を受けたと言う。ペレストロイカ以降の新しい世代が、エンタテイメントの世界でもいよいよ頭角を現してきたと多くの人々が思った瞬間だと思う。それと市川崑監督、宮川一夫が作り出した銀のこし(映画おとうと)を、本作で使用しているため、ロシアの自然を叙情的に映せている。この透明感があるのはそれが理由だろう。タルコフスキーのような神秘的主義はそこまで強くはないが、雨や湖、雲や森。それら情景、水の表情が唯一神秘的な深みを追加している要素になっている。

そこへアンドレイ・デルガチョフの音楽が自然の映像表現とマッチしていて非常に良い。当時この映画を見て、サウンドトラックを手にしてしまったほど好きだった。緊迫感を増幅させていくような、なんとも素晴らしいスコアが耳に残る。監督の人脈で集まった若いスタッフたちで見事にベネチアを制覇した新人たちの新しいロシア・カルチャーを世界に知らしめた傑作である。21世紀の金獅子賞受賞作品の中でも今のところ本作がダントツで好きかもしれない。それにしても若干13歳だった弟役の子役はすごかった。もちろん無口な父親も印象に残るが、彼は確か舞台俳優として活躍していた。溺死したウラジミールのために監督は授賞式の壇上でこの賞を彼に捧げたのが印象に残る。さて、長い前フリはこの辺にして、物語を説明していきたいと思う。


本作は冒頭に、海中の映像が映し出され、不穏な地響きが鳴り、カメラは水中から空中へとわかる。そこでは数人の若者が泳いでいる。彼らはそこにある高台から脇をしめて飛び込んでいる。どうやら、勇気試しをしているようだ。カメラはとある兄弟2人を捉え頭上から映し、最初に兄貴が飛び込む。次は弟の番であるが、彼は怖じ気づきなかなか飛ぼうとしない。先に飛び込んだ他の友達がいつまでも待ってると思うなよ、飛ばないなら早く降りて来いと言う。兄貴は弟は飛ぶはずだ。今準備をしているんだと言う。カメラは小さく丸まった弟の背中をとらえる。彼は裸であり、冷たい風が彼を震わせる。結局飛ばなかったため、兄貴を含め友達はその高台の海から去ってしまう。一人きりになった弟は、その場に残るが、母親が探しにきて連れて帰る…さて、物語には、僕らが物心つかないうちに出て行ったきりで、写真でしか見覚えのない父さん。

ある静かな夏の日に、その父さんが突然、帰ってきた。大きな体をベットに横たえて、まるで死んだように眠っていたかと思うと、家族にたった一言"久しぶり"とだけ言って、夕食のテーブルでは中央に座り、家長然としてあれこれ仕切り始める。母さんもおばあさんも黙ったまま、ずっと視線を落としている。はじめての再会に、僕も兄さんも頭の中がひどく混乱している。父さんは、今まで何をしていたのだろうか?いったいどこからやってきたのか?言葉が少ない父さんの、顎に蓄えた不精髭だけが、12年と言う空白の時間を物静かに語っている。食事をしながら父さんは、明日からしばらくの間、僕たち兄弟と旅に出ると言い出した。あまりに突然の出来事でうまく飲み込めない。

大きな期待と不安を抱えたまま、その日は兄さんと興奮して眠れない夜を過ごした。次の日の朝、僕たち3人は釣竿とテントを積み、日記を持って、父さんの車ではるか北部に位置する、湖に浮かぶ無人島を目指して旅に出た。父さんがいなかった日常がバックミラーに消え、新しい世界が目の前に広がっていく。目的の島に着く頃、僕の中に父さんに対する疑問と憎しみがどんどん膨らんでいった。どうして今更戻ってきたのだろうか?大体、この男は本当に僕たちの父さんなのだろうか?彼は僕たちに何を伝えようとしているのか?愛情の欠片も感じない横暴な振る舞いに、どうしても我慢ができなくなった時、僕は遂にむき出しの感情を、父にぶつけてしまう…とがっつり説明するとこんな感じで、風景が圧倒的な力を表し、終始地平線が見える風景が印象に残り、冒頭の湖から始まり、最後の湖までとにもかくにも風景に牛耳られた映画であった。3人が共通して見る風景の美しさとは変わって、3人の居心地の悪さはとんでもなく不調和を出していた。

この作品、基本的にロングショットで全風景をフレームインさせているのだが、まるで風景の奥に別の宇宙があるかのような演出がなされている分、神の不在(ベルイマン作品)のような父親=神様的なメタファーがあり、非常に興味深い。特に、主人公の家の周りに人気が全然なく、まるでファンタジーのような、彼らしか住んでいない世界を映しているかのような、風景は寂しさそのもので、不安と孤独を突き立てられる。そして静かなのである。寂れている街を舞台にしている作品など山のようにあるが、この作品も寂れている街が少しばかり舞台となっていたが、長年家を空けていた父親との重なりが見てとれる。まるで父親が不在だったために、この街全体が悲しみに暮れているかのような、そんな冒頭の心掴まれる搭の場面からずっとこの"もやもや"とした、どこかしら懐かしいノスタルジックな、夏にもかかわらず凍える少年たちの姿を見ているとどうも、幼児期の自分の嫌な過去を頭によぎさせる。

ズビャギンツェフの数少ない5作品全て見ているが、彼は説明的な作り方をしない映画を撮っている。それが故に詩的で寓話的な雰囲気を醸し出し、言葉で伝えるよりか広々とした風景に意味を持たせている感じがする。そしてシンボライズされるあるものをそれぞれの映画に際立たせている。例えば、「ヴェラの祈り」では、巨大な木がシンボリックに写し出されていた。だから本作では途中、途中息子2人を置いて、どこかに出かけてしまう父親との関係性よりも、息子2人と自然との関係(この場合風景になるが)を多く描いている。それは序盤、中盤、終盤の3つのポイント全てにおいてそうなのである。これが監督の言いたかった大事なメッセージだと受け取れる。だから終始、地平線の見える風景の向こうに何かがいるように描いている。すなわち、それは沈黙する神と言うことになる。だから自宅のベッドで寝ている父親の姿がイタリア・ルネサンスの絵画、アンドレア・マンテーニャの"死せるキリスト"の構図で撮影されているのだ。そうなると、父親が聖者の如くその役割を果たしているかのように見えてくる。だから宗教的な映画とも言える。


そしてこの作品には、ほとんど人が出てこない。レストランに寄ったときのウェイトレス、不良少年、そして姿は見えなくとも、トラックを運転しているはずの人間くらいだろう。それとは別に、廃船がある分、かつてここに誰かがいたと言う気配を助長させている場面もある。廃船といえば、ベルイマンの神の沈黙三部作の1つである「鏡の中にある如く」である。無論、吉田喜重作品にも出てくるが、監督がその作品を見ている事は低い。するとやはりベルイマンの影響も受けていると思われる。因みにその廃船が画面に出てくるシークエンスは圧倒的に美しい。そしてタルコフスキーの「ストーカー」のクライマックスで、テーブルに顔半分つけ、気だるそうにに少女が瓶のコップを超能力で引き寄せるシーンのように、この作品では神秘的な世界に引き寄せられる3人を描いているようにも見えた。どこかにいる神に見つめられているかのような、この孤高の風景が素晴らしいのだ。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「情事」の雰囲気にも似ている。

3人が旅するのは神を見つけるだけではなく、現実社会から離れるためでもあるのかもしれない。孤島を目指して行くのだから。すると、現実社会に浸かってしまった愚行な人間の恥と汚れを神に会うまでに、洗い流すための大量の雨が降っているようにも思える。清く正しく、それが神秘主義の1つ清らかな水である。今思えばミハルコフの「ウルガ」(残念ながら日本ではVHSのみ)の金獅子賞以外だと、タルコフスキーの「僕の村は戦場だった」と先ほど述べたが、それと本作の共通点は主人公が少年であると言うことだ。しかも「ローラーとバイオリン」の卒業制作を抜けば長編デビュー作は僕の村…である。すると、2人の共通点はデビュー作で最高賞をベネチアと言う映画祭で受賞していることもつながるのだ。これは偶然なのだろうか、必然なのだろうか…。ここにも神秘的なものを感じてしまう。とゆうか、弟の名前をイワンと名付けているのは、まさに「僕の村は戦場だった」の原題名が"イワンの少年時代"であるから、そこから取っている事は言うまでもない。そして面白いことに、兄貴の名前はアンドレイ、これは監督自身の名前でもあるし、タルコフスキーの名前でもある。

そして結局この作品には謎だらけのものが多く、監督自身も明かしていない。箱の中には何が入っていたのか、なぜ嫁を置いて子供たちと旅に出たのか、誰と電話をしていたのかなど様々な不可解なものはあるが、そういったものは特に気にしないが、私が最も引っかかるのが12年ぶりの帰還と言うことである。その12年と言う数字が引っかかるのだ。なぜ12年なのだろうか、それを必死に考えてもわからない。もし誰か知っていたら教えて欲しい。今のところ考えられるのは、旧ソ連が崩壊したのが1991年で、この作品が2003年に製作されたのだから、そこから足すと12年と言う数字が出てくるが、この作品に権力的な描写が一応父親が権力者と言う設定にも見えるが、そこまで強い意識がなかったためどうなのかと一応思っているが、ソ連時代はスターリンなどは国民の父として振る舞ってきている分、父親の存在が皇帝と言う意味合いも見てとれるが、これは邪推かもしれない。ここで、すごい恐ろしい話をすると、その12年の間に一体父親は何をしていたのか、ソ連が崩壊して、その間にロシアがおかしくなってしまい、権力が小さくなったのを、監督が良しとしないのであれば、原題の"帰還"と言うタイトル、父親が12年後に帰還して、堕落した息子(この場合堕落した国の民衆)たちを再度強く教育しているシーンを見ると、まるでこの監督は権力を持っていた旧ソ連時代に今のロシアを戻したいと言わんばかりではないか、そう考えるのは全く以て不本意だが、この作品には多くのメタファーと謎がある分、様々な事柄をどうしても考えてしまう。

それに、ベネチアのインタビューの時に、イワンが2003年の時で12歳になると言う事は1991年前後の生まれになるから、正直言って私と同じ年齢もしくは1つ先輩か一個下位だ。そうすると同じくソ連が崩壊した91年と主人公の誕生がまさに重なるのである。そうするといろいろな解釈ができてしまうのだ。そうするとだ、弟が反発を繰り返し父親にしていると言うのは、ソ連崩壊=全く新しい国体であるロシアしか知らないからで、それよりも年齢が上の兄が父親とうまくやっていけるのは、父親と同じ時代、いわゆるソ連崩壊前を生きているからと言う筋書きになる。コンスタンチン演じる父親の名前が一切明かされないのも、父親=神と言うことだからかもしれない。そうすると子供が神だと知らずに神を殺してしまったことになる。厳密に言えば直接殺したと言うわけではないが、殺人に関与してしまう形である。そもそも、ドストエフスキイの"カラマーゾフの兄弟"に登場する大審問官の一説がセリフに使われていると見られる。さて、本当かウソか、こういった話はこの辺にして、私個人印象的に残った場面を言及したいと思う。


いゃ〜、冒頭からとんでもなく映像が美しい。と言うよりか、音楽が最高に素晴らしい。凄い魅了されてしまう。この作品は冒頭の5分で観客の心を鷲掴みする。先に行ってしまった兄貴たちを追ってやってきた廃墟のビルのようなところで、兄弟喧嘩をし始めて、そっから追いかけっこをし始める。それを手持ちカメラで臨場感あふれる撮影をし、そこでまたデルガチョフの音楽が流される。子役が一生懸命走っている必死の険しい表情を横から捉えるカメラ、自然豊かに囲まれた家へ帰ってくる彼らに父親が帰ってきたと知らされ混乱する2人の姿をカメラが静かに捉える、なんとも印象的である。そして父親との12年ぶりの再会。というか初対面。そしてその夕食のテーブルを囲む家族団欒をとらえるカメラワークが凄まじい。あんなキレキレなカット割り、たまんね〜。長いテーブルの両サイド縦にはそれぞれ兄弟が座り、正面には父親が座り、父親の反対側には母親と祖母が座っている。これだけで絵になる構図。そしてミニマルな室内や色あせた淡い壁などがまさにタルコフスキーのそれである。

そしてレストランを見つけて、そこから不穏な空気が一気になる。弟と父親が険悪な仲になり始めるのだ。そしてDVDパッケージの表紙の弟の顔が父親の顔の影になるシーンが、まさにここである。そしてお勘定を済ませて、父親が電話をしている最中に、兄弟が不良少年に財布を盗まれてしまい、父親がその不良少年を捕まえて、彼らに手渡し好きなようにぶん殴れと言うが、2人はもういいと言う。そしてその不良になぜ盗んだと言うと、お腹がすいたと言って、父親が不良にお金を渡し失せろと言い、彼がいなくなり、2人が父親に叱られ、弟が絡まれているところを見ていたのになぜ助けなかったんだと言って、そのまま車のトランクから釣竿と荷物をとって、あのバスで帰れ、俺は用事ができたと父親が言うと、兄貴が滝に行くって約束したじゃないと言うと、滝は今度だと言い、弟が今度って12年後?と言って父親が今なんて言った?と言うと、今度僕たちのことを滝に連れて行くのは12年後かって聞いたんだよ、何か悪い事でも言ったか?と居丈高に言いながら立ち去っていくシーンは印象深い。

いゃ〜、あの弟役の子供インパクトあるよ。序盤では、泣きべそかいて兄貴にもやられていたのに、父親が来てからまるっきり性格が変わったかのように、兄貴にこのバカと言ったり、逆に兄貴が弟のように見えてしまうのだ。それにしてもロシア北西部レニングラード州とカレリア共和国の境界にあり、フィンランドとの国境に近いラドガ湖の風光明媚さは凄まじいものである。夜、森でテントを張って、焚き火をしながら魚を食べるシーンは炎を使った神秘主義の1つを成し遂げている。テントの中で、強気だった弟が急に母親を恋しくなり、泣き出してしまったり、案外情緒不安定であることが明らかになる。そして釣りを中断させられてしまい、不満な弟が父親に車から放り出されて、置いていかれてしまって、1人で土砂降りの中、体育座りしてずっと待っている場面のざわざわ、ぞわぞわ感すごかった。弟が微かに見えるトラックを眺めているから、何かアクションが起こるのじゃないかとすごい緊張感が静寂の中にあった。

そして、土砂降りの沼にはまってしまい、車を3人で一生懸命そこから動かそうとするシーンで、またトラブルが発生する。それは兄の血である…(敢えて深く言及しない。ネタバレになるから)。んで、3人は青空の中、一時の戯れを楽しむが、不穏な空気は一切切れない。これが、この作品の魅力的なところで、終始ピリピリとした空気感の中、サスペンスフルで得体の知れない何かが画面の中を漂っているかのような、そんな重苦しい帰結まで目が離せないのである。この作品は悲劇的なことも起こり、アンドレイ役のウラジーミル・ガーリンは、撮影後まもなく湖で事故に遭い、亡くなってしまったのである。だから、授賞式に彼は現れていなかったのだ。この作品クライマックスの〇〇を運ぶシーンの、ロングショットの風景のフレームインがとんでもなく美しい。まるで絵画を見ているかのようだ。そして静止画、スチール写真のモノクロ数枚が……。

クライマックスのモノクロ描写での雷の音が鳴り響き、土砂降りの音が聞こえるのってタルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」の終わりと一緒である。 Andrey DergatchevのOld Manが流れるモノクロ写真の描写とエンドクレジットで流れるAndrey DergatchevのFinal Titlesがたまらない。監督が北野武の作品に影響受けていると言うなら、クライマックスの複数の静止画は、「あの夏、いちばん静かな海。」のクライマックスのサプライズとよく似ている。そういえばこの作品で反復が冒頭から始まり、クライマックスでもあったなあ。特に追いかけっこする場面は印象的である。途中で逆転するのも意味深である。冒頭の最初の晩餐でぶどう酒を継ぐというかワインだったんだけど、それって、最後の晩餐を念頭に置いたものだと思われる。いわゆるキリストが父親で、子供たちがキリストの弟子であると言う位置づけだろう。それに物語を1日ずつ日曜日別に進行させるやり方が、旧約聖書の天地創造にならったものかと…。宗教的、政治的な要素がこのようなシンプルな映画に隠されている。

長々とレビューしたが、最後にソ連からロシアへ変転していくロシア映画界の栄光と没落について語りたいと思う。ソ連時代、ロシア映画はタルコフスキーのような芸術映画だけではなかった事は周知の通りだろう。50年代後半の雪解け(スターリンの死後、フルシチョフ失脚まで、ソ連で比較的自由化が進んだ時代)の時期以降、映画制作は国家により推奨されてきた。「戦争と平和」のような歴史大作。「誓い休暇」等戦場が1度も登場しないリリックの戦争映画。その他にもメロドラマだったり賑やかな音楽コメディーだったりもあった。そして子供向けの幼児映画もある。幅広いジャンルの作品が、国際映画祭で受賞し、世界中の映画ファンに愛された。シェイクスピアの最も優れた映画化は、ソ連のグレゴリー監督の「ハムレット」「リア王」だと言うのが世界の常識だった時期だったそうだ。

それからソ連崩壊、モスフィルム、レンフィルムはじめ、旧国営の主要な映画スタジオは、事実上マフィアの管理下に入ってしまったそうだ。映画人たちは強力なコネがない限り、膨大な賄賂を払わなければ、スタジオを使うことすらできず、映画制作が困難になったと言われている。それでも自由主義経済の下、映画に新たなビジネスチャンスを設けた投資家は続々登場し、ー時は年間100本近くの新作が作られていたみたいだ。だが配給、興行サイドはロシア映画を嫌い、ハリウッド製バイオレンスや、女性のヌード場面満載のヒット作ばかり上映していたみたいだ。日本で公開された数少ない90年代ロシア映画の大半に、意味なく女性のヌードが登場するのは、そーゆー興行面の配慮もあるみたいだ。その結果、ロシアの若い優秀な人材は、海外に活路を求めたらしい。今ロシアで映画を作っているのも、ソ連時代にいちど名声を築いた人が大半だそうだ。そして最後に、監督が来日した際に好きな監督を数人挙げたが、その監督名はアントニオーニを始め、ロベール・ブレッソン、黒澤明、北野武、イングマール・ベルイマン、エリック・ロメール、ロシアの関連諸国の監督としてはタルコフスキー、イオセリアーニなどを挙げていた。

まだこの作品を見ていない方はお勧めする。儚いほどに美しい、ロシアの古典的アート映画を堪能してほしい。隠喩を盛り込んだ不穏なスリラー映画を体験したい人にもこれをお勧めしたい。見る者を2時間のファンタジーへと誘うこと間違いなし。もし君がハリウッド映画のスリラーに飽きてしまったり、映画を見るのに困った場合は、すかさず本作を手に持つと良い。あぁ、傑作。
Jeffrey

Jeffrey