「東南アジア映画の巨匠たち」にて有楽町スバル座にて鑑賞。
明日、死ぬとは思わなかった。
明日、死ぬとは気づかなかった。
明日のことは誰にもわからない。
タイの新鋭ナワポン監督が「死」について思い巡らし、少年や104歳になる老人に死の恐れや捉えをインタビューするパートと、明日死ぬとは知らずに過ごす今日のドラマパートで構成される。繋ぐ時は、真っ黒な背景で、実際の死の例を、文字とナレーションで描く。その左上には1秒で2人が亡くなるという世界の今、死に行く人の数がカウントされている。
タイ🇹🇭と日本🇯🇵は死生観が近いのか、すっと入ってくる。死は日常の一部であり、人生最後の1日も日常の中に訪れるという観点。優しい余韻の映画だった。
印象に残ったのは心臓のドナー待ちだが現れず、今年で自分は死ぬと思っている女性とアメリカへの出張前に寄った彼氏との病室でのシーン。
彼女は彼の爪を切る。右手の爪を切り、左手の爪を切り、もういいと言う彼を、私が切りたいの、と足の爪を切ってあげる。
私が死んだら、次の彼女に切ってもらって。
君以外にいないよ。。
2人を並行のパン撮影を行ったり来たりして見せる、静かで切なくとも愛おしい時間。
彼がじゃあ行ってくるよと病室を出る。
ふと、彼女の頬を涙が伝う。
でも観てる私は知っている。翌日に死ぬのは彼の方だったことを。
私が一番死を恐れ、死を考えたのは、5歳の頃だ。
一番年が近かった従兄弟が急死した。
先週、一緒に遊んでた。
翌週、棺で眠っていた。
叔母さんは憔悴仕切っていた。
死という概念を一瞬に理解した。
それから一年、電気を消して眠れなかった。
自分が消滅する恐ろしさがこびりついた。
幼稚園の先生が教室を暗くして軽い怪談話をしたら、耳を塞いでうーっと唸り始めて、まもなく中止になったらしい。
後日、自宅まで謝りに来たと母は言っているが記憶にない。
なぜ、こんな恐ろしいことが待っているのだろう。
なのに、なぜ人は生まれてくるのだろう。
真っ暗な砂の中に吸い込まれ、どこまでも下に落ちていき、沈んでいくような恐怖。
小学校に上がってからは段々と、死への恐怖が薄れていった。
死を考えるのを諦めた。
大人になって、友人には輪廻転生を信じる人も多くいた。
そっちの方が死の恐怖が薄れて羨ましいなって思った。
ある友人がいった。
輪廻があると思って死んであったら、やっぱりあった!と思えるし、無かったらその時は気づかない。だってもう死んでるから 笑 だったらその方が人生幸せに生きれるでしょ。
たしかに、、
でも、今の記憶観念と自己が消滅したら、意味がないけど、、
無理に信じるのも諦めた。
いつか消えるのを安らかに受け止められたらいい。
死の直前まで死のことを考えずに過ごすか
死を想い、限りある人生を豊かにする意欲にするか
ひたひたとした怖れを感じつつも、日々の生を慈しむか
輪廻転生を信じて、死を怖れとは思わぬか
どの態度でも間違いはないと思う。
正解はない。
自分が生きやすいように選べばいい。
全員一緒の運命だから。
だから亡くなった人への敬意が浮かぶ。
死の恐怖を受け入れたにせよ、怖れに慄いたにせよ、乗り越えたのだから。
そんな死に対する自身の落とし所を、巡らすことができる貴重な75分だった。
わかっていることはただひとつ。
今、あなたも私も生きている。