夢里村

ペンギン・ハイウェイの夢里村のレビュー・感想・評価

ペンギン・ハイウェイ(2018年製作の映画)
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2点、言及します。

1.カットを重ねることについて
主人公の青山くんは、自分が見聞きし調査したことをノートに記し、謎を解明していきます。それが彼なりの解として収束していくとき、物語は終わりを迎えます。
そんな主人公してる彼ですが、ぐらついた歯を気にしたり、コーヒーを飲もうとしたり、そして何より、成人するまでの日数を計算してカウントしています。さらにこの作品は夏休みの出来事でもありました(夏休みから前後にはみ出してはいますが)。つまり、物語は初めと終わりで明らかに時間が経過しているのです。
青山くんが紙上に集積していくトライアンドエラーと同様に、(当たり前のように)カットも紡がれていきます。冒頭のクレジット時の町にペンギンが出現した断片的なカットや、「海」を経過観察していくシークエンスは、やはりページの一枚一枚であるという自覚のうえで、物語に作用しているようにさえ見えます。
ではアニメーション及び映画が連続しているものだという前提が何を演出していたのかというと、それはやはりお姉さんの消滅であったと思います。映画において重なっていくことは時間が経過することであり、実際、喫茶店の窓から見える空き地を埋め尽くしていたペンギンたちはディゾルブによって(=カットが変わっていくにつれ)消えていき、それによってお姉さんの命(時間の経過により消えざるをえないもの)の終わりが確実に刻まれていきました。青山くんが、そしてこの物語が積み上げていったものは、お姉さんがいなくなってしまうまでを数えていく作業ですらあったと、残酷なようですが考えてしまいます。
(だからこそペンギンが消えていくシーンは落涙ものでした。お姉さんが消えるその瞬間も、青山くんの目線を捉える切り返しというカットが無情にも通過します)


2.お姉さんは人間か?
ぼくがこの映画において何より印象的であったお姉さんの消滅ですが、果たしてそれは悲しいことなのでしょうか? ペンギンはなんのためらいもなく(作者によって)生み出され、そして消えていきます。命に対して真摯な姿勢とはまったく言えないでしょう(生命中心主義を唱えたいわけではありません)。しかしやはり、人間の形をしたお姉さんとのお別れに、沸き起こる寂しさを抑えることができません。それは人間然としているからなのでしょうか? 物語において魅力的なキャラクターであったからでしょうか?
散々ばらまかれてきた「おっぱい」が種の存続のための器官であり、青山くんが抱きしめられた際の彼の顔のアップに収められていた、呼吸のために上下していたおっぱい、そのカットを(お姉さんは生きている!)、ぼくは忘れられません。


(「海」世界において、2人が映っていたところからパンしてまた2人が映り込むショット、進行方向が同じなのに鏡はそれぞれ逆の向きへの歩みを映す、立っているものの影の方向が異なっているなどの細部の演出なども見事でした)
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