白眉ちゃん

希望の灯りの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

希望の灯り(2018年製作の映画)
4.0
ちなみに昨日でベルリンの壁崩壊から30年。という訳で劇場ぶりに再見。

『ドイツの東西再統一から約30年。今なお耐え続ける夜の人々を照らす為の朝陽はいつ差すのだろうか』

東西再統一後、企業の民営化の波により多くの失業者を出した旧東ドイツ。それから20、30年が経ち、今も続く経済不振の中で静かに生き続ける労働者にスポットをあてた。
世間が寝静まる頃に単純労働に従事する人々が抱える、社会から消えてゆくような寂寥感と彼らが寄り添う中で感じる微かな美しさや温もりをこの映画は見事に写しだしている。


勤務明け、ブルーノに誘われて彼の自宅を訪れるクリスティアン。2人が真っ暗な室内に入ってくる。カメラはテーブルを軸に縦の構図で撮っている。セリフから妻と二人で暮らしていることが明らかになるが部屋に明かりがさすと奥行きと思われていたところにはのっぺりとした壁しかなく、閉塞感を感じる。自宅のようなパーソナルスペースを人物の心象とすることはよくあることで、この映像的な印象は後にブルーノの自殺として回収される。

シナリオにおいて白眉なのは、クリスティアンが欠勤しているマリオンの家を訪れるシーンだろう。本編の9割を職場と自宅の導線上で完結している上に、クリスティアンは自分を変えようだとか、コミュニティ内の問題を解決しようといった行動はとらない。ただ耐え忍び、寄り添うだけである。
そんな中、このシーンは自発的に導線上を離れ、細やかな犯罪性を持たせることで異色なシーンになっている。個人的にはこのシーンにもう少し象徴的なエピソードがあれば作品の評価は上がったところだが、手摺りの裏に身を隠す姿は子供のように微笑ましく、机に残した花束は慎ましやかな純真さにも思える。そこに終着することも憎めない。

東西統一からの急激な生活の変化に対して「適応」を求めるのは『グッバイ、レーニン!』(03)にも通ずるところだが、ブルーノのように適応できない人間を今でも抱えているのがドイツ社会の問題なのだろう。
リアリズム作品への常套句になってしまうが、トーマス・ステューバー監督は東西統一の狭間で忘れ去られた人々に灯りを当て、決して劇的ではない私達に生き続けることの難しさと偉大さを明示してくれた。
様々な美しい瞬間が同時にもの悲しさと憂いを帯びていて、不思議な感触を持った映画だった。
白眉ちゃん

白眉ちゃん