安堵霊タラコフスキー

ウトヤ島、7月22日の安堵霊タラコフスキーのレビュー・感想・評価

ウトヤ島、7月22日(2018年製作の映画)
1.1
またまた出ました長回しを売りにした映画!ということで予告を見たときから悪い予感はしていながらも長回しフェチの義務感が働き損する覚悟で臨みはしたけど、予想以上に酷くて逆に放心状態になってしまった。

この映画についての良い点は二つしか無いからざっと言ってしまうと、まずウトヤ島について触れるきっかけの一つになったっていうのは大きかったし、劇中の描写でも最初にカメラに語りかけているかと思いきやイヤフォンマイク着けて母親と電話していたってシーンは面白かった。

でもそこのシーン後に早速砂利の上を歩くカメラマンの足音が聞こえて心配になってしまい、しかしその心配の通り誰視点かわからないようなカメラがズームしたり物陰に隠れる為にダイブしたりと何のつもりか謎の動作が多くて(小手先で臨場感を出そうとしたのだとしたら事実を基にしたフィクションでやるにしてはあまりに不謹慎)、一体何者なのかとツッコミを入れたくなって堪らなかった。

しかも一人の女子を主役にしてカメラがその後を追う形式になっているからどれだけ銃声が鳴ろうと最後まで撃たれないだろうことが見え見えで、輪舞のように主役が切り替わる形式だったら緊張感も出ていたろうに固定された主人公のせいで途中から茶番臭が強くなって白けてしまった。

そしてその主人公の行動にもイライラさせられっぱなしで、襲われるかもしれないってときに妹へ電話を送ったり(着信で気付かれる危険性すら考えられなかったのか)襲撃者がやって来ると思われる方向に妹探しの為に一人だけ駆けて行ったり、極限状況にしても軽率過ぎる行動ばかり取って辟易してしまったが、切羽詰まった状態ならこういう変な行動を取ってもおかしくないとドラマに都合の良い言動のキャラとしたのなら犠牲者に対する冒涜にすら思える。

台詞が終わるタイミングで事態が動くって場面も非常に多く、そのせいで撮り方に対して劇映画感が強くなり、その臨場感を出す狙いとタイミングの良い台詞の噛み合わなさには失笑してしまいそうで正直危なかった。

この映画と似たコンセプトの作品にはヴィクトリアというものがあるけど、始まりと終わりの落差とかとても90分1カットの撮影とは思えない密度とカメラの巧みさ故に全部長回しで撮る意義があったと思えたヴィクトリアに対して、こちらは前述のカメラマンの余計な足音とか律儀すぎる視線送りとか逆に長回しが足を引っ張っていたようにしか思えず、むしろ炎268みたいに長回しを挟みつつもそれに拘らない撮影をしていた方が良かったのではないかと思ってしまった。(我ながら珍しいことに)

長回しっていうのは基本的に自分の琴線に触れる手法ではあるのだけど、使い方が酷いとここまで醜悪になるのかとビックリしてしまい、そういう意味では貴重な体験が出来たようには思えたし、同じような触れ込みでも似たような感覚を予告で味わったら今度は避けるようにしたい。