YasujiOshiba

審判のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

審判(2018年製作の映画)
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今日試写を見てきました。名作です。見逃したら一生の損だと断言してしまいましょう。なにしろすごくよい映画なのですから。

これは良いと思ったのが、まずは音ですね。音のよい映画に悪い映画はありません。最初に聞こえてくる会話のリアリティは録音の良さをパッとわからせてくれましたし、最初に聞こえてくる楽器が画面の底を抜くようなみごとな響きを聞かせくれたのです。こうなると、あとは映像に身をゆだねたくなりますよね。

そして映像がよい。ブルーがかったグレスケールといえばよいのでしょうか。どうしても白黒つけたくてしょうがないのだけれど、微妙に色が混じり込んでしまうような色づくり。そのなかに、あのリンゴのような赤がときおり、あの小津安二郎の作品のように、アクセントをつけてくれるのですが、そいつがただのアクセントに終わらないところが見どころのひとつなんでしょうね。そう、ぼくらの体のなかを流れていて、一度外にでると、時間がたつにつれてどす黒くなってゆく、あの赤のことです。

もちろんカフカが原作ですから、迷宮のような作品なのですが、なぜかぼくにはすごく明白なストーリーに思えました。これはどこかで見たことがあると思えたのです。

たとえばフェリーニの『マストルナの旅』。おっと、これは未完におわった作品ですから、見たわけではないのですが、同じフェリーニのカフカ的な『結婚相談所』なんかよりも、むしろ後期の作品、それも『カサノバ』などに近いのではないでしょうか。

さらにイタリアで言えばトルナトーレの『記憶の扉』(1994)であり、日本なら是枝さんの『ワンダフルライフ』。あるいはどことなく寺山修司の香り。それからエイドリアン・ラインの『ジェイコブズ・ラダー』(1990)もそうかもしれないし、サム・メンデスの『アメリカン・ビューティー』(1999)やリチャード・ケリー『ドニー・ダーコ』(2001)。

こう書いてくると、早合点しちゃう人がいると思うのですが、そのどの作品にも似ていないところがミソ。なにせ原作はあのカフカですからね。

それでも試写のあとのアフタートークで、にわつとむさんが、最初はどういう話かわからなかったのだけど、親族の誰かが亡くなった時に、やっとこの映画はひとりの男の人生の話だったんだと(思い込みかもしれないけれどと言いながら)思ったのですと口にされたとき、ぼくは思わず膝を打ちましたもんね。たしかに、そうだと思いましたもん。

もちろん監督のジョンさんは、ちょっと違う想いがあったのでしょうね。なんどもお話しになっているのだと思いますが、今の日本は、とりわけこの数年、どこかおかしくなっている。まるでカフカの世界のようになりつつある。それが、この映画の出発点にあるとおっしゃっていましたよね。

日本に住んで30年、大好きな国でもあるからこそ、おかしな方向に変化してゆく現状に責任を感じてしまうという監督の言葉は、じつに耳が痛いところがあります。そして、その責任から、この映画を撮ったというのは、じつに見事なコミットメントでありませんか。

こういう映画のことをイタリア語では「cinema d'impegno civile」というのですが、わかりやすくいえば「cinema politico」(政治映画)ということになるんですよね。そうなんだけど、この映画はぼくには「impegno civile」のほうがピンとくる。いわば「倫理的な責務を担おうとする映画」なわけです。

「civile」という単語は、グラムシ的な文脈では「市民的」とか訳されてきたもの。でも、civile に対立するのは selvatico なんでしょうね。selva は「森」のことですが、ようするに森の中で野蛮な暮らしをしている状態のことが selvatico (野蛮) であり、そこから出て civitas (都市)を形成する状態のことです。「civile」とはその都市という場所で共に生きる者が持つべき資質のことを言うのですが、そういう意味での「倫理的な責務 impegno civile 」。

ジョンさんのこの映画は、そういう意味で非常に civile なものだと思うのです。ジョンさんが感じた何かやらなくてはという責務だけではなく、クラウドファンディングという手法、そしてなによりも、カフカの迷宮そのものが civile なもののあり方を根本から問い直そうとするものであること。

そういえば、アフタートークで品川徹さんが、カフカの原作は読んだことがなかったのだけど、この映画を見てぜひ翻訳で(!)読みたいとおっしゃったのには大笑い。いやあ、これってこの映画への最大級の賛辞なのではないでしょうか。

もちろん小説と映画は別物ですが、小説を読んで映画を見たくなろうが、映画をみて小説を読みたくなろうが、そこからなにかをやりたくなるようななにものかは、スピノザのいうところのボーヌス(善なるもの)に決まっているわけで、芸術なんてのは、忌野清志郎が歌うように「心のボーナス」を与えるくれるだけで、そいつは最高に決まってるわけです。

なにしろジョンさんだって、14歳のときに『審判』を読んだときは、さっぱりわからなくて「なんじゃこりゃ?」と思ったそうではないですか。そうは思いながらも、それからうん十年年後、今の2018年にいたる日本の数年のなかで、「なんじゃこりゃ」であった作品が「倫理的な責務」として浮かび上がってきたというわけです。

それはぼくたちにとってもまた、あの黒いカラスさんがぼくたちに残してくれた「心のボーナス」でなければ、いったいなんだと言うのでしょうか。
YasujiOshiba

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