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エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へのslowのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

あちら側から眺める煌々とした世界も、こちら側で蠢く魑魅魍魎の生態も、今のわたしにとっては全く無視のできないもの。こう在りたい、こう認識されたいと、作っては壊し、壊しては作るわたしと、わたしの努力は、思い描いたようには報われず、いつまでも仮初めのわたしを手放せない。青春は待ったなしというけれど、本当にそうだろうか。青春はそんなに甘くない。青春はどこまでも追いかけてくる。
神様に何百回とした一生のお願いは、実は何一つ叶えられたことはなく、多くの局面は自分で打破しなくてはならない。しかし、きっかけはどこに転がっているかわからず、それら全てが突破口であるとも限らない。さらに、あの時振り絞った勇気が分厚い壁に小さな風穴を開けていたことを、わたしたちは大抵後で知ることになる。だから、そんな小さな勝利の為に、悲しくても笑ったり、嬉しくても笑えなかったり、素直から引き離された世界で、一日一日を乗り越え、ただ吉報を待つしかなかった。

『Girl』と同じ、大丈夫じゃない時は、大丈夫。でも本当は大丈夫かどうかすらも、わからない。父親が鬱陶しいのも同じ。でも本当は誰より頼っているのも同じ。時期的なことで言えば『わがままなヴァカンス』や『スクールズ・アウト』も無関係ではなくて、それぞれの期待と不安が、急上昇と急降下を繰り返しながら、それぞれの心を成長させる、どれも個人的には好みの作品だった。正直、ケイラの悩みを父親は解決などできないだろう。それも『Girl』で感じたこと。本作では子供たちとSNSの密接さと、そこで得られる喜びと伴う痛みが、まるで当然のもののように描かれる。そう、それは当然のもの。当たり前が時代によって変わっていくのは世の常だ。そして、親はそのツールを通した子供たちの社会がわからなくて当然なのだ。ただ、わかるように努力する、我慢する(食事のシーンなんてまさに)。危険だと感じたら守る(煙たがられても気にかける)。何よりケイラのすることを否定せず(正しいかどうかではなくケイラを信じて)応援する父親の愛情がひしひしと伝わり、夜のあのシーンには感動を禁じ得なかった。

自己顕示欲を人並みに持ちながらも、自己完結を余儀なくされることの虚しさ。一方通行の「グッジョブ…」が凄く愛おしい。漸くケイラがケイラらしく話をできた終盤のゲイブとのシーン。これが何とも微笑ましくて、気恥ずかしくて、とても心温まるものだった。やっぱり人は尊重し合うことから始めるべきだと思う。わからないからこそ、面倒でも、そうすることに意味があると思う。無駄に終わっても、それにはとても価値があると思う。
これからも良いことばかりではないはずだ。でも、悪いことばかりでもないだろう。それを受け入れ、自分をまた少し受け入れたことで、夢と希望が小さく息を吹き返すラストが実に清々しく、同時にそれは繰り返される青春の残酷さへの宣戦布告でもあったのだろう。素晴らしい物語だった。第2回友達の会で、また会おうね。
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