ALABAMA

祇園祭のALABAMAのネタバレレビュー・内容・結末

祇園祭(1968年製作の映画)
2.8

このレビューはネタバレを含みます

松竹映配株式会社配給、日本映画復興協会制作作品。監督は東映京都の山内鉄也。今日はちょうど祇園祭で、京都文化博物館では本作の無料上映を行なっていた。
将軍の後継者争いに端を発する応仁の乱で荒廃した京都。御上の圧政から民衆同士が憎しみをもって戦争を行なう乱世であった。農民達は深刻な飢饉から馬借と手を組み、度々京の町に現れては、火を放ち、土一揆を起こし、町衆達が住まう京の町を火の海にした。染め物職人の新吉の母も一揆が発端となって殺されてしまう。大きな犠牲を出していた町衆は怒りに身を任せ侍と組み、山科の百姓たちを襲撃して土一揆を根こそぎ排除しようと戦を仕掛ける。しかしいざ新吉ら町衆が戦場で目にしたのは、無益で悲惨な殺し合い。人を殺すという事に嫌気がさした町衆達は人を殺す事になんの感情も湧かない、そしていざという時に逃げ出した侍に対して疑念を抱く。新吉はふとある夜、身体を交わした笛の名手で、被差別身分河原者の善阿弥の娘であるあやめの言葉を思い出す。農民と町衆が戦って共に滅びていくのを観て笑うのは侍。こうなれば、町衆達の心のうちを御上に、侍にみせるには自分たちが生まれる前の応仁の乱で途絶えてしまった祇園会を再び復興するしかない。という結論に至った。祇園の御囃子方で、土一揆の折に死んでしまった彦爺に笛を習っていた新吉は自ら祇園囃子を新しく作り出し、町衆、農民、馬借の和睦にも成功して京都一丸となって祇園会の準備に取りかかる。自らも兼ねてから思いを寄せていたあやめと付き合うこととなる。いざ祇園会開催の直前、将軍家は祇園会の中止を命じる。もしやりたければ、破損した将軍家の屋敷の再建費を献納することと条件をつけるが、そんな金は町衆に負担出来ない。強行した場合は、将軍家の軍勢が京の町に押し寄せることになる。町衆達に諦めムードが漂う中、新吉はとある提案をする。神事を行なわず、自分たちの祭りにしてはどうかと。祇園会ではなく、祇園祭にしてはどうかと。町衆達はそれに賛成、祇園祭は開催となる。開催当日、今までの祇園会にはないほどの巨大な山鉾が巡行する。民衆は歓声をあげ、新吉は自ら山鉾の先導者となる。しかし、将軍家の軍勢が山鉾の巡行を阻止しに京の町へ。それを蹴散らしにかつての敵であった馬借達が手を貸す。見事祇園祭は開催となった。だが、将軍家の兵の一人が放った矢が新吉に刺さる。新吉は矢が刺さり瀕死となった身ながらも、山鉾を先導し続ける。
この作品を観て、外に出るとちょうど祇園祭をやっているというなんとも貴重な映画体験をした。本作は伊藤大輔が暖めていた企画であり、紆余曲折ありながらも京都府政100年事業による京都府の協力と京都市民のカンパ、日本映画復興協会製作のもとに、映画会社の垣根を超えた豪華俳優陣たちを起用して撮影された。主演萬屋錦之助を初めとして岩下志麻、志村喬、三船敏郎、渥美清、高倉健、田中邦衛、北大路欣也、美空ひばりなど、五社協定期では実現不可能であった松竹、東映、東宝の俳優陣たちがこぞって参加。作品が詰っていた東映京都撮影所の代わりに当時の京都映画撮影所(現:松竹撮影所)をメインスタジオとしてクランクイン。舗装前の新丸太町通りに広大なオープンセットと山鉾を作り、京都市民エキストラ協力のもと荘厳な祇園祭の再現に成功した。莫大なお金を投じて作られたことがよくわかる画で、この映画に賭ける京都の映画人たちの想いがひしひしと伝わってきた。リアリズムの追求というよりは、京都が育んだいわゆる時代劇的な時代劇で、現代の我々にとっては少々、観る事に抵抗があるかも知れない。本作の美術監督である井川徳道氏は東映所属で、京都を代表する美術監督の一人。セットにも俳優にも一切の妥協は認められない。
権力に弾圧された民衆達の戦い。人を殺す戦争を止めて、芸術文化による戦いをしようという想い。身分差別を乗り越えて愛する者同士が祭という環境のもと自由になろうという様々な思いが詰った祇園祭という存在。その中には京都の日本の映画の復活を重ね合わせた部分もあるだろう。戦争とはいつも名ばかりの大義名分が世を動かし、結果的に拭い去れない影を落とす。誰のための戦争か。
そして本作には映画文化そのものの存在を問うた部分もある。劇作家の岸田国士は俳優という存在を示した著書の中で、劇の起源はもともと祭事、神事であるといった。俳優は皆の希望や祈りを反映した存在だと。まさしく、本作の中で描かれた祇園祭そのものであり、萬屋錦之助演じる新吉もセリフによってそれを明言している。とても濃密な内容であった。
ただ、映像技法的にはズームとポン寄りの多用による動静の強調が目立っていて、俳優の動きによって動静を強調したい自分にとってはあまり好みではなかった。その中でも、三船敏郎の動きは黒澤映画と同じく少々オーバーなほど活発な動きで、一人光っていた。渥美清は松竹作品の時と同じ動き、高倉健や北大路欣也も東映作品に出ているかのように自分の身で動いている(監督は東映だが)ことから、俳優の動きからも、各映画会社のカラーが見えて非常におもしろい。
映画の展開はというと、少々ありきたりで、古式ゆかしい作風、しかも長尺なので観るのはもしかしたら退屈するかも知ない。僕は退屈した。京都映画ファンにはたまらないであろう、文化的な価値を内包した作品。独立プロダクション製作のため、権利問題でソフト化されておらず、現在京都文化博物館のフィルム上映でしか観る事ができない。

〜過去のレビューについて②〜
増村保造監督による松竹作品『この子の七つのお祝いに』について、先日プロデューサーと飲みに行った時にその話になった。本作の併映は深作欣二監督の『蒲田行進曲』だったとのこと。意外な組み合わせで驚いた。
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