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21世紀の女の子のchiakihayashiのレビュー・感想・評価

21世紀の女の子(2018年製作の映画)
3.3
 「自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること」がテーマで、恋あるいは性愛の関係性を描いた作品では異性愛と同性愛がほぼ拮抗。

 他に目立ったのがカメラを手にしたヒロインたち。これまでの〈視線のポリティクス〉ではカメラはペニスに喩えられたように、対象を支配し、占有する道具という一面が強かった。同時に、カメラのシャッターを押すという行為はそこに映る対象の存在を肯定するという一面も持っている。例えば荒木経惟は妻の陽子を撮った「私写真」以来、そのせめぎ合いを生きてきた(そして結局は堕落した?)写真家と言えるかもしれない。ともあれ、そんな道具をヒロインたちは手にしている。

 昨年、本作に参加している加藤綾佳監督『いつも月夜に米の飯』、枝優花監督『少女邂逅』、山中瑶子監督『あみこ』と、かなり苦労して映画館に行き、やはりかなり苦労して見た。ともすればイタイタしさの方が先に立ち、ヒロインが渾身のパワーを爆発させるシーンにもなんだかモドカしさが残ってしまうのだ。
 とはいえ、確かなのは彼女たちがもうひとりの自分自身、あるいはそんな自分に似た若い女性たちに向けて映画を撮っていること。古くは吉屋信子、時代が下って氷室冴子が〈少女小説〉(氷室冴子はjuvenaileという言葉を好んでいたけれど)というジャンルの可能性を切り開き、〈少女漫画〉というジャンルを大島弓子とか萩尾望都とか竹宮惠子とか(ここに個人的には内田善美に佐藤史生を入れたい)が花開かせたように、ひょっとして〈少女映画〉というジャンルが生まれつつあるのかも、という予感を抱いたのだが、それはとうに山戸結希監督によって明確に意識され、また決然と意志されて、こうして現実になっていたというわけだ。

 今年になって広瀬奈々子監督『夜明け』、甲斐さやか監督『赤い雪』と長編デビュー作にして力作2本を見たが、この2本が〝男がすなる〟映画監督を女性がやってみれば、少なくとも男に負けず劣らずに邦画の秀作の水準を十二分にクリアーできることを示しているとすれば、『21世紀の女の子』は男性の目をほとんど問題にしていないように見える。

  私が映画館で観た際、舞台挨拶に登場した2人の監督さんたち、女優さんたちの名前はもう忘れたけれど(笑)、ビックリしたのは監督さんたちも女優さんたちと変わらない可愛らしさで、司会の山戸結希監督をはじめ、皆さん、声もしゃべり方も実に〝女の子っぽかった〟こと−−−−いや、これは私の方が映画監督についてステレオタイプ的な偏見を持っていたということか。
 エンディングテーマはこれまた可愛らしい声が「♪少女のままで死ぬ〜♪」と歌って終わる。これは、〈私は私自身を誰にも明け渡さない〉という決意表明に他ならない。たぶん。
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