エクストリームマン

若おかみは小学生!のエクストリームマンのレビュー・感想・評価

若おかみは小学生!(2018年製作の映画)
5.0
絵柄に騙されちゃいかん系。『シュガー・ラッシュ』とか『魔女っこ姉妹のヨヨとネネ』とか、それらにも通じる極上のジュブナイルでありエンターテイメント。

※盛大にネタバレしてます。

冒頭の、かなり強烈な交通事故の場面から、一転して何事もなかったかのように家を後にする主人公:おっこ(小林星蘭)。フラットな声で「いってきます」と告げるマンションの部屋は真っ暗で人の気配はない。タイトルが出る前に仕掛けられ印象付けられたこの爆弾が炸裂するのは、まさにクライマックス中のクライマックスで、それまで観客はあらゆる場面に不穏さと焦燥感を抱きながらも、ただおっこが成長していく姿を見守るしかない。

旅館:春の屋の「若おかみ」として修行し成長していくおっこの姿はいかにも順調で、ともすると“順調すぎる”ように見えるかもしれない。しかしそれは、まさに冒頭の事故の場面と直後の「何事もなかったかのように」春の屋で働き始めるおっこ、という不調和、その歪みに由来する反動的な忘却と逃避の態度なのである。年相応に眼の前のことだけを考えていればよかった世界は唐突に終わりを告げ、たった独りで世界と相対さねばならなくなったおっこは、自分を守るためにやむを得ず大人になったのだ。そうすることで、周囲に心配され労られ続けるという苦しみからはなんとか逃れることができた。

おっこが「若おかみ」として迎える3組の客は、『クリスマスキャロル』の3人の幽霊たちのように、それぞれがおっこの過去・現在・未来を映す鏡になっている。神田親子は現在、グローリー・水領(ホラン千秋)は未来、そして木瀬の家族は過去だ。母を亡くしたばかりの神田あかね少年(小松未可子)はおっこの現在と合い通じる境遇であり、もてなしで彼を癒やすことがおっこ自身の成長と癒やしにも繋がっている。占い師のグローリー・水領はおっこの未来(=憧れ、自由さ)を象徴するキャラクターとして登場する。彼女と接することで、おっこは世界の広がりや未来への期待を思い出した。そして、冬に旅館を訪れた木瀬文太(山寺宏一)こそ、実はおっこの両親を奪った事故の加害者であり、そのことを知ってしまった(察してしまった)おっこは、耐えきれずに外へ飛び出してしまう…。

このクライマックスの凄味は、木瀬文太への饗しがおっこの成長の結実であると同時に最も辛く悲しい過去と真正面から向き合うことと重ねられているところだろう。春の屋への心無い悪口(これにも理由はあるのだが)を言われ、おっこが喧嘩別れしていた秋野真月(水樹奈々)にも頭を下げて知恵を借りたのは、客を饗すことが何よりも優先されるとおっこが思うに至り、行動できるようになった結果だ。しかしそれは、直視することを避け続けてきた過去を呼び起こすことにも繋がってしまう。あの場面で描かれる残酷さや重たさは、非常に丁寧に描写を積み重ねてきたからこそのものだろう。また、おっこだけに見える「幽霊」の2人の描かれ方や距離感も伏線として効いている。おっこが成長していくにつれて幽霊の2人の姿が見えない&声が聴こえないようになっていくのに対し、どの時期でも両親の幻影(あるいは夢か記憶か。あれが何かをハッキリさせない演出が巧みであり残酷であり)が鮮明なのは、両親との死別という過去が楔となって、おっこの心の奥に刺さったままだからだ。死に別れた筈の過去の像と違和感なく寄り添っていることの不自然さが、“生きた”幽霊2人との成長の結果の別れと対比されている。クライマックスで描かれる出来事は、おっこが木瀬の家族3人を饗し、その後旅館を飛び出していくという、ただそれだけのことだ。ただし、その場面に折り重なった情感は複雑さを極め、怒涛のようにおっこにも、そして彼女を観ている我々観客にも押し寄せてくる。

ここまでやってどうやって収まりをつけるのか!?と思っていたところ、グローリー・水領が来て、春の屋におっこの過去・現在・未来が集う(現在はおっこ自身)こととなり、今の自分自身が何者なのかをおっこが捉え直し受け容れることで、押し寄せてきていた情感の渦は収束していく。そこには1年経ってはじめてまっとうに歩みはじめられるおっこの姿があり、ちぐはぐだったものが綺麗に収まりつつも未来に向かって開けていく意外なほどの爽やかさがあった。