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バーニング 劇場版のwakjgのレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
4.0
寓意と提示の物語。
解けないパズルを渡されたようで、すっかり迷い込んでしまった。

小説家の主人公と昔近所に住んでいた女がたまたま出会う。
男と女が初めて出会った日、女は習っていたパントマイムで蜜柑の皮むきをしてみせた。蜜柑を手に取り皮を剥き、果実を吸って皮を吐き出し、丸めて捨てるところまで。あまりの上手さに才能があるね、と言うと彼女は蜜柑はあると思い込むのではなく、そこに無いことを忘れれば良いのだと言う。
女はコンパニオンの僅かな稼ぎで生計を立てており、1日ーそれも条件の揃った時だけにー数分わずかにクローゼットの一片へ日の差すのを待つような、コンパクトな日陰のワンルームの部屋に暮らしている。二人は、そこにお付き合いしている恋人達と言う言葉は当てはまりそうに無いが、それぞれがいちばんのそれでいて唯一の仲の良い友人のように互いに好意を抱いている。
北アフリカに行きたいと女が旅に出て、その間に男は飼い猫の面倒を頼まれたが、確かにそのワンルームのアパートにいるはずの飼い猫は、一度も姿を現すことはなかった。果たして本当に飼い猫はいるのか、本当に彼女は旅に出ているのかさえ疑問を抱き、このまま帰ってこないのではないかと考える中、彼女が帰国するので空港まで迎えに来て欲しいと頼まれる。
女は飛行機の出発が遅れて何時間も待たされている時に出会った謎の男と共に帰ってきた。その男はきちんとした身なりで清潔感のある男で、その夜は三人で飲み、帰り道にその男が女を送ってゆく。
暫くしたとある日、主人公の男の家に二人が遊びに来た。女が夕陽に向かって踊る中、男達は二人で大麻を吸う。そこで主人公は謎の男から『僕は時々ビニールハウスを焼くんです』と聞かされる。その日以来、女は姿を消したー。

考察のキーワードとなるヒントたちが無数に散りばめられる。
蜜柑のパントマイム。そこにあると思い込むのではく、そこに無いことを忘れればいいのだと言う。
姿を現さない飼い猫。姿はないがその痕跡は残っている。
焼かれるのを待っているビニールハウス。とても近くで焼かれたはずだが、焼かれないまま存在している。

小説家の主人公が男から聞かされた、僕は時々ビニールハウスを燃やしています。という告白。このフレーズは映画の宣伝にも使われていて、このあまりに引っかかる言葉にそそられる。
男は、きちんとした身なりをしたハンサムで、高級車に乗り、都市部の日本でいうなら青山や乃木坂のあたりだろうか、そんな住宅街で独り身には大きすぎるマンションに住み、見るからに裕福な暮らしをしている。どんな仕事をしているのかわからない、まるでギャッツビーのような男だ。
彼自体が何者であるのか、ということの問いかけになっており、小説家は、彼はこういうものであるという定義を決めることなく、その提示された"あるがままのもの"を受け入れている。だからこそ、男は自分はビニールハウスを燃やしていると言うことを小説家に伝えたのだろう。彼は絶対的な喪失感や諦念と共に犯罪の気配を漂わせるため、小説家は女の不在とそれらを結び付けている。
しかし、物語では決定的な瞬間は一介描かれない。
ベンはヘミをビニールハウスを焼くように葬ったのかもしれないし、パントマイムのようにあくまでも観念的な比喩表現で、実際はなにもしていないのかもしれない。ただそこに示される"あるがままのもの"をどう捉えるのか、判断づけるのか、自分の都合の良いように捉えていないか。そもそも彼自身がジョンスに対して、あなたは形のない観念世界へ入り込むことができるのかと問うているようでもある。それは観客への問いかけでもある。形而上学のようで、結論付かないところがまさに面白い。
ヘミは北アフリカに行って、現地民の踊りを見た。その踊りは、夜が更けてゆくのに伴って空腹を示すリトルハングリーから魂の空腹を示すグレートハングリーへと変化してゆく。目の前にあること、ではなくもっと観念的なもの、人生の意味について想いを馳せることが、彼らを繋ぐものであり、そんな喪失感を抱く若者たちの時代を切り取った作品だったのだ。

例えば、過去の出来事を思い返す時、確かにそこにあったことではあるが、今ここに無いことは明らかである。大部分の記憶は、日々が流れてゆくと、いつのまにかそこにあったことを忘れているものだ。そんなもんなんだ、そうやって喪失してゆくのだ。
なんて、考えてみたけれど、まだまだ考えられそうだ。
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