ケンヤム

バーニング 劇場版のケンヤムのレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
4.8
軽トラに乗るリトルハンガーとポルシェに乗るグレートハンガー。
服を脱いで裸で踊る。

満たされない飢餓感を紛らわす為のオナニー。
オナニーほど人間にとって悲しい営みはない。
満たされるはずのない飢餓感を一生懸命埋めようとする健気な姿。

軽トラとポルシェ
路地裏で二人でタバコ吸う、金持ちたちの整理された街を背に二人でタバコ吸う
タバコと大麻
ポルシェが田舎の寂れた家に侵入してくる時、韓国の国旗がはためく
メタファーは対比だと思った。
金持ちと貧乏人という対比を積み重ねていくことで、その境目が融解する。
その媒介として、空っぽのヘミが存在するのだ。
「みかんがないということを忘れるのよ」
あることとないことが同義になってくる。
なにもかもがあるということは、全ての事象が平板になって、なにもないということと一緒なのだ。
神様がいるとしたら、ベンみたいに退屈そうにしているだろうなと思う。なにもかも現代では平板だから。横並びだから。
ベンはヘミの踊りをみてもなにも感じず、あくびをしている。
神もリトルハンガーとグレートハンガーを高みから眺めてあくびを噛み殺していることだろう。
神もやっぱり世間体みたいなものがあるだろうから、表向きはベンのように親しげなふりをしているが、こっそりあくびしているに決まってる。

神が退屈する時代。
なにもかも満ち足りていて、なにもかも欠けている時代。
納屋を焼くくらいしかやることのない時代。

不在を探す身振りは映画だ。
ヘミを探すジョンスの走る姿そのものが映画だ。
ジョンスがヘミを見つけた時、そこに血が流れる。
ポルシェは燃える。
ジョンスはヘミに「裸になるのは娼婦だ」と言ってしまった自分を燃やしたのだ。
燃え上がるような赤は映画に、彩りを与える。
それが血でも炎でもどっちでもいいんだよ、作り手にとっても鑑賞者にとっても。
この映画は、たまたま炎を選んだだけで血でもよかったんだ。
ならば、神すらも絶望しているこの世界に神はなにを与えるのだろう。
血か炎か。
そんなことはどっちでもいい。
とにかく、この世には映画があるのだから。
神が大昔にこしらえた映画というナイフで、私たちは神を刺し殺すしかないのだろうと思った。
あと、神様はオナニーしないんだろうな、いいなぁと思った。
いないことを忘れたジョンスはマスかくのをやめて小説を書く。
ケンヤム

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