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バーニング 劇場版のsanbonのレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
2.9
大人ぶれば全てが"至高"に思えてくる「雰囲気映画」の"極致"のような作品。

まず、この作品は運送業でアルバイトをする小説家志望の男「ジョンス」が、配達に立ち寄ったデパートの入り口でキャンペーンガールを務めていた幼馴染の女「ヘミ」と再会を果たす事で始まるミステリーである。

うん、これはなんとも"映画賞が好きそうな"映画であり、そんな映画賞があまり好きじゃない僕には、やっぱり肌に合わない作品だった。

僕にとっての映画とは、「芸術」でも「文学」でもなく、「純度100%のエンターテインメント」である。

真に映画を愛する方から見たら誠に浅い観念であろうが、これが僕の映画に求める全てなのだ。

その上で、僕のレビューをご愛顧頂いている方ならお気付きかと思うが、僕は"理屈で説明出来ないもの"を好まない性格だ。

例えば、目の前に嫌いなものがあるとして、それを「だって嫌なんだもん!だから最悪じゃん!」と感情論でしか物事を伝えてこない人が居たとすれば「なにがそんなに嫌なのか」「なにがどうだから最悪なのか」をきっちり問いただしたくなる。

何事も話はそれからだと思っているからだ。

しかし、こと芸術的感性の持ち主は「彼は嫌いなものをただ嫌いと言える!なんて素晴らしいんだ!」「彼が最悪だと言っているんだ!他に何が必要だと言うんだ!それが全てじゃないか!」と、彼の感情を最大級に"美化"したうえで"乗っかる"事が出来るのだ。

この、なにも解決しない問題提起に"ノレるかノレないか"が、この作品"最大のキモ"となる。

まず、この作品には意味深な"メタファー"がいくつもいくつもいくつも登場しては、なにも回収されずに消えていく。

劇中でもセリフとして「メタファーってなに?」という言葉があざとく登場する程、この映画の雰囲気を形作るには重要な要素として組み込まれているのだ。

ちなみに、メタファーとは「比喩表現」の事であり、例えば"A"を直接"A"とは伝えず"A"を連想させる"B"をあえて用いる事で、間接的に"A"を印象付けるような手法の事である。

更に補足すると「メタ構造」は、映画の構成が2重3重の層のようになっている状態の事であり、好例としては「カメラを止めるな!」のように、ゾンビ映画を撮っている人達を更に撮っているような構成が分かりやすいだろうか。

そんなメタファー要素が、今作では思い付く限りでも下記の通りいくつも確認出来る。

アイテムとして
・無いはずのミカン
・居るはずのネコ
・あったはずの井戸

現象として
・一瞬差し込む反射光
・何度もくる無言電話
・タワーを眺めながらの自慰行為

関係値として
・お金を持つもの持たざるもの
・人生が満たされているものいないもの

と、これらさまざまな要素を用いて「存在の有無」をしつこく伝えてくる。

そしてそれらが明確に結論付けられる事は"一切ない"まま、この映画は終わりを迎えてしまうのだ。

観ている間中、時間が進むに連れてある意味ハラハラが止まらなかった。

まさかこのまま終わらないよな?

え、もうこんな時間だけど?

…は?嘘だろおい…。

リアルにこんな事を呟きながら鑑賞していたと思う。

そして、この物語のタイトルにもなっている「バーニング」だが、これは突如現れる謎のリッチマン「ベン」の隠れた趣味に由来する。

ベンは、ヘミがアフリカ旅行中に出会い、それ以降何かにつけ同じ時間を共に過ごすようになる男なのだが、そんな彼が「ビニールハウスを燃やす」事を人知れず楽しんでいると、ある日突然告白してくるのだ。

その理由は「役に立たず目障りで薄汚れた存在は、燃やされたところで警察も気に留めないし、焼かれるのを待っている気がする」からだという。

それ以降、ジョンスは朽ちたビニールハウスを見付けては気にかける毎日を送るのだが、時を同じく明らかな事件性を感じる音だけが聞こえる通話を残して、ヘミとはその日を境に音信不通になってしまうのだった。

ヘミは、一体なぜ消えてしまったのだろう?

状況証拠だけ集めていくと、ヘミと入れ替わるように別の女がベンの傍らを陣取るようになったり、ジョンスがヘミにあげた腕時計がベンの自宅にあったり、ベンが飼い始めたネコはヘミが飼っていたネコ(ジョンスは一度も姿を見ていない)の呼び名に反応したり、ベンが人里離れたダムをただ眺めるだけのシーンがあったりで、ヘミはベンに殺されたと思わせるような描写が非常に多い。

そう考えると、ビニールハウスもまた比喩表現の一つで、役立たずで目障りで薄汚れた存在とは"弱者"や"持たざるもの"や"中身の無い人間"を指す言葉だったと考えられ、ベンがパーティの最中ヘミが楽しげに話す横で"あくび"をかますシーンなども実に示唆的である。

ただ、これらは僕の単なる見解であり、実際のところヘミの失踪はなにも解決する事なく終わってしまうし、ヘミが生きてるのか死んでるのかすら分からない。

今作は、こんな重要なセクションでさえなにも言及される事なく、投げっぱなしジャーマンスープレックス状態で全てが終わってしまうのだ。

要するに、ただのミスリードだったのかもしれないし、実際にそうだったのかもしれないのだけれど、劇中で提示される材料だけではそれ以上の結論を得る事は誰であろうと決して出来ないようになっている。

うーん、謎が謎のまま放置されて、あとは観た人が好きなように解釈してねっていう、僕の嫌いなやつだ。笑

飽きずに最後まで観る事は出来たのだが、それでもこのやり方を僕はどうしても良いとは思えない。

これがいいと思えるなら、世にある映画のほとんどが傑作レベルになってやしまわないかと思ってしまうのだ。

だってこの映画のやり方は、映画としてのオチ自体は一応用意されていたが、そこに行き着くまでの道のりがあまりにも曖昧であり、劇中に登場するいくつもの出来事が全て伏線だったとするならば、それらが全く回収されずに幕を閉じてしまうという事だ。

普段であれば、みんな問答無用で駄作認定するような要素ばかりなのに、なまじ雰囲気だけはめっちゃいい作品である為、それにほだされた挙句周りの高評価に迎合してるだけなんじゃないのかと勘ぐってしまう。

これを良しとしてしまうと、雰囲気だけは良いが"自己完結を放棄"した、視聴者に結論を"丸投げ"してくるタイプの"大人ぶったような作品"を、全て肯定していかなくてはいけなくなる為、芸術の"げ"の字も分からないお子ちゃま思考な僕は、この手の作品は完全に否定させてもらう事にする。

ただ、先述したとおり雰囲気だけはめっちゃいいので、内容が不明瞭でも雰囲気重視で楽しめる方ならきっと気にいる筈である。

しかも、世の中そういう作品って割と多いよね。

あと、久々の再会だというのに、灰皿代わりの紙コップにすすった鼻水をそのまま目の前で吐き捨てるような女は、いくら可愛かろうが僕は断固御免被りたい。