三畳

幸福なラザロの三畳のレビュー・感想・評価

幸福なラザロ(2018年製作の映画)
4.2
「夏をゆく人々」で私を撃ち抜いたアリーチェ・ロルヴァケルの2作目。こちらの方がヒットしていたらしいけど私は前作の方が好き。

搾取とか構造の問題を見るたびに、当事者(弱者)特に少年少女はもっと目の前のごく狭い範囲のことしか見えていないんだなと思う。だからこそ俯瞰できる機会を持った者は俯瞰しないといけない、権利じゃなくて義務なんだと思う。言い換えると俯瞰するばかりでは、当事者の目線にある実感問題が見えない。
社会的に「解決」させられて過ぎ去ったものは、当然楽しかったばかりじゃないしきっと美化もしているとはいえ、納屋に差す光や、はちみつが漏れた床を手ですくう感触が伝わってきそうな生々しい暮らしの質感を丁寧に描く意味はそこにありそう。
豆電球ひとつが照らすのは紛れもない貧しさだけど、そこで育った子供たちには温かいふるさとの光景。

ラザロの村は、行政の介入で労働搾取が解消されるものの、運ばれてきた街で生きる学が備わっていないから、ゴミ山を拠点に人を欺かなければならないその日暮らしに一転する。
「夏を」では、一家代々営んできた養蜂場が、法律が変わったかなんかで建設の基準をクリアしていないからという理由で、最終的には伝承と生活が途絶えてしまった。

2作の共通点は、限界集落(っていうとちょっと性質が違うかもだけど)みたいな田舎、対・街の暮らし。
家族のつながりなんていう簡単な言葉では言い表せない、もっと神聖で土着的に築かれてきた信頼と絆のようなもの。対・物質主義とか、社会規範?

前作の方が好きと書いた理由は、
ラザロは人並み外れた善人だし、はっきりと現実ではありえない神話的な奇蹟が2,3起きる。それをゆるく受け入れる映画の魔法も素晴らしくそういうの大好きなんだけど、
もっと明文化しないレベルで神様を意識させるかのような「夏を」の方が、不思議と聖人を感じた。
人間性は普通の農家と少女たちだけど、排他的だし神々しかった。

ただ「夏を」には他の大きなドラマが含まれているから、ラザロで言う半分の地点で終わっている。街に出たか死んだか、その後の物語は想像で補わないといけない。

「夏を」は直接的な搾取ではないけど、2作比べてみると悪者そのものではなくてそれを俯瞰する認識の溝をこそ描きたかったのかなと気づいた。
それも、こっちの認識が誤っていると言うのではなくて、このように成り立っている美しい小さな世界、精神があるよということを教えてくれたかっただけのような気がする。

そう解釈したい私には、ラザロのラストは「無理解な者が弱者を虐げてかわいそう」に一気に視線を持っていかれてしまうので、急に違うなと思った。
アレクサンドル・コット監督の「草原の実験」も繊細で美しいぽつんと一軒家生活を描いているけど、明確にあの落差ラストに向かっていたと思うので、それはそれで突き放され考えさせられるのが正解なんだろう。

ラザロも草原の実験もラストがなくても映画として大好きだから見たくなかったな、と思ってしまった私は、だから「夏を」が好きなのか?美しい景色を求めるだけの臭い現実にフタ精神なのか?
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