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COLD WAR あの歌、2つの心のchiakihayashiのネタバレレビュー・内容・結末

COLD WAR あの歌、2つの心(2018年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

 正方形に近いモノクロームの画面は、その肌理の美しさといい、氷のようにエッジが効いている。が、そこに封じ込められた15年間に及ぶ男女の愛の物語は触れれば火傷しそうなほどに烈しい。「まばたきするのも惜しくなる」とアレクサンダー・ペイン監督(『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(2013)という美しいモノクロームの作品を撮っている)をして言わしめた画面に感嘆しながらも、見終えて〝氷の炎〟と形容したくなるヒロインが内在的に描かれていない点にかすかに不満が残る自分がいた。あくまでも男性の眼差しが追う女性像であるのは言わば当然のことではあるのだけれど。

 ズーラは〝運命の女〟としてヴィクトルとともに破滅へと堕ちていくファム・ファタルとして造型されている。
 ファム・ファタルとは、プロトタイプとされるマノン・レスコーやカルメン、あるいはハリウッドのフィルム・ノワール(典型は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』)にしても、その美貌と奔放さで複数の男たちの運命を弄ぶかのような女性で、当然ながら家父長制社会では最後には罰せられるが如くに死ななければならない。一方、「この(映画の)二人は部分的に私の両親を基にしている。彼らはそれぞれに別のパートナーとくっついたりしながら、とても激しい関係を結んでいた」とパヴリコフスキ監督が語る本作では、家父長に代わって−−−−というよりは、家父長制に加えて、冷戦下の専制的な体制そのものがふたりの前に立ちはだかっている。

 パヴリコフスキ監督は監督賞を受賞したカンヌ国際映画祭の記者会見で、燃え上がるロマンスには障害がつきものだという趣旨の、この傑出した作品の監督とも思えない凡庸な応答をしているけれども、ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』が示したように、抑圧的な社会体制は男女の関係性やセクシュアリティに影を落とさずにはいない。

 最初、ズーラは「父親殺しで執行猶予中」の少女として登場する。真偽を問い質したヴィクトルに、ズーラは「私を母と間違えたから、ナイフで刺したのよ。殺してはいないわ」と答える。音楽家としての近代的なアイデンティティを求めて息苦しい社会主義国家から脱出しようとしたヴィクトルに対し、音楽舞踊団の花形になったとはいえ、また、いかにも勝ち気だったとはいえ、若い娘であるズーラにはどこにも自分の未来を思い描けない。加えてズーラの野性的な強さには、故国、故郷の大地から栄養を吸い上げていればこそ、という面があったのではないだろうか。終盤、ヴィクトルを救うためとはいえ、心にもない家庭を持ったズーラの私生活の破綻は明らかで、黒髪のカツラを被ってステージに立っている姿はもはや音楽からも見放されているようだ。ひとりの歌い手としてのエイジェンシーを彼女はとうとう持ち得なかった。

 家父長制と政治体制という二重の抑圧に本能的に精一杯抗い、遂に敗れたヒロインが、恋人とともに死をもって愛を贖った物語。この映画でfatalなのは、実はポーランドという祖国なのかもしれない。
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