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ブラック・クランズマンのkigumaのレビュー・感想・評価

ブラック・クランズマン(2018年製作の映画)
5.0
-噛みつくエンタメ・毒を征する劇薬-

作品を見終わった後に、これほど自分の感情を整理出来ない映画も珍しい。
予告編のポップなコメディタッチと異なり、本編はまるでマイルス・デイビスのZimbabweのように複雑かつ重層的な構造で進行する。テンポいいし笑えるのだけど、その笑っている自分を時々俯瞰させてぞっとさせる仕掛けがあり、喜怒哀楽が複雑に絡み合う不思議なグルーヴ感のある作品。

グリーンブックは寓話として楽しめる作品にまとまっていた。時代背景もあるのだけどStar Warsのように「遙か昔、銀河系の遙か彼方で」として客観的に見る事が出来る。

しかしこの作品は70年代半ばのアメリカの人種闘争を描いていながら、まったくひとごととして見る事が出来なかった。これは日本の、そして世界の今の姿そのままだ。

普通の作品では差別はふたつの価値観の対立として描かれる。フォースのダークサイドとライトサイド、善と悪。ドラゴンと秘宝。しかしこの作品で描かれる差別はもっと多層的で複雑だ。白人至上主義者の同胞への女性差別。過去の悲惨な歴史を語るアフリカ系指導者がかき立てる怒り、恐怖。

古いギリシャの言葉で「およそ自ら進んで悪をなすものはいない」という一節があるそうだ。古代ギリシャでの「悪」とは「非合理」を指し、つまり「非合理」な行動を起こす者の心の中には、当人の合理的な動機がある。

この作品の中で描かれる「差別」と「暴力」は全て当人達の合理的な理由から引き起こされる。

「無知」と「恐怖」だ。


特に「生存欲」を脅かす恐怖と対面した時、人を人たらしめてきた理性が失われ、野獣よりたちの悪い暴徒になる。

ならば群衆を動かす最も効果的な方法はシンプルだ。
・知識を与えず
・敵を作り
・恐怖を植え付ける事

あなたの今の平穏を脅かす敵が迫っている
敵はあなたの大切なものを奪おうとしている
デビルマンのエンディングのように。

物語終盤、いきなり我々は映画の世界から現実を突きつけられる。
2019年現在、我々の意識はまったく変わっていない。

いや、もっと言えば「風と共に去りぬ」の時代に奴隷制が廃止されて以来、人の意識は進歩し、スタートレックの世界のように理想的でコスモポリタンな世界に住んでいると信じていた我々の足元を崩し、その美しい舗装の下にマグマのように蠢く醜い現実を映画は見せつける。

この作品は高度に作劇されたエンターテイメントだ。
だけど、劇場を出る我々の足取りは重い。
そして劇中の扇動者達のように答えを提供してはくれない。
現実を見せつけ、噛んで去って行く作品。

癒しだけで進化出来るほど我々の意識は高くない。
噛みつかれ流れる血を見てよぼよぼ歩き出すだけだ。

しかしこの感情が絶望かといえば、そんな単純な感情でもない。

現実から見るとファンタジーに見えるけど、あのチームの中では確かにひとつの「理想」が提示されていた。

憎しみや絶望に満たされたエントリープラグの中から這い出して、赤く染まった不毛の地へ歩き出せと。
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