狭須があこ

ブラック・クランズマンの狭須があこのレビュー・感想・評価

ブラック・クランズマン(2018年製作の映画)
4.2
「グリーンブック」がアカデミー賞を獲り、「やってられっかよ!!」とブチギレた黒人監督の作品ということで、「そこまでの自信作、なんぼのもんじゃい、見てやろうやんけ」という理由で見に来ました。

私は映画には割とエンタメを求めてるし、その点では「グリーンブック」はゲラゲラ笑いながら見たので、もっと深刻に差別問題を描いているならあんまり好みではないだろな。と思いながら。

イヤでもゲラゲラ笑うとこはないけど、ちゃんとエンタメだった。雑な作戦と度胸頼りのギリギリ過ぎる潜入捜査に延々とハラハラし、しっかり楽しんでしまいました。
「お前があんまり考えずにやったアレのツケが回ってきてピンチになってんぞ!あーあ!あーあ!」というの、結構好きだわ

あと私やっぱ全然タイプじゃないけどアダムドライバー好きだわ。
俳優として面白すぎるわ

ただ、この映画がオスカーを逃した理由は、なんとなくわかる気がしてしまいました。
この映画、「こんなことが現実に起こっているのです。どう思いますか?」という、問いかけなんですよ。

グリーンブックはちゃんと、答えが出てたじゃないですか。
「こんなことが現実に起こっていて、でも彼らの答えはこうだったのだ」という描き方をしていたじゃん。

「グリーンブックは白人目線の映画だ」と批判されていたけども、そんならばこの映画も結局出し抜かれるのは白人たちだし、黒人の私情が入りまくりじゃねぇか
別に私情が入っても面白けりゃいいと思うし、アカデミー賞の選考について私はそんな詳しくもないけど、個人的には「どう思いますか?」の答えの出ない問いに対して賞が出なかったのはわかる気がしなくもなくもなくもない

人間たちは「戦う目的」と「戦うべき敵」が欲しいんですね。
大義のために戦うぼく。周りにこんなに賛同者がいる。ぼくは全然一人じゃない!
ぼくは戦ってる!!ぼくは生きてる!!

それに都合がいいんでしょうね。
生まれつき「白人」「黒人」と所属が別れているイベント。人生開始時点で所属してたチームで勝利を目指す。
白人はともかく、黒人は意味なく振りかかる理不尽さをはねのけるために活動してるもんだと思ってたんですけど、見てるとそうでもなかったんだわ

私、「自らオカマを名乗るゲイは、オカマと呼ばれて傷つけられてるマイノリティの邪魔」みたいな言い分を聞いたことがあるんですよ。
黒人を解放する運動をしている者たちが、自分たちの主張と活動に賛同しない黒人を排除するの、ちょっと普通にバカバカしい。
だってその人は黒人なんだから、絶対同じ目にはあってるじゃん。

彼が白人なら、潜入捜査は自分自身でできたワケでしょ。
「自分(白人のすがた)」を窓の外から眺めるしかなかった黒人の彼を敵とみなすならば、黒人解放運動っていうのは一体なんなんだよ

デリケートな問題相手なので予防線を張りまくるけども、私は関係ない国の日本人なので、人種の差という感覚には疎い。
あと、虐げられてきたほうの立場に追い討ちかけたいワケでもないけど、私は集団じゃなく個人で人を見たいです。

「黒人を差別するのは許せない!警官なんて一人クソ野郎が居れば全員クソ野郎でいいのよ!」って叫ぶ黒人活動家のダブスタ、みたいな部分も受け取ったつもりで居たので、この映画は立場関係なく人種間の争いそのものに疑問を投げかけてるのかと思ったんですけどね

白人は優位だった側なので、段々差別心がなくなればそれでいいかもしれないけども、黒人はまとめて虐げられてきて怒ってるのに、その怒りを向ける先が白人全体でしょ
「人種でまとめられずに、個人を見ることができる世界」にするためには、まず黒人がその「白人全体への遺恨」を水に流さないと、関係が平らにならないんですよね。

虐げられてきたほうが更に我慢を要求される。
それは「お前ら白人はのんきでいいな!」って思うのはしょうがないし、「白人が作った映画が評価された」という人種的な理由で怒り狂うリー監督、わかるよ。
虐げられてきた側としての想いはわかる。
それだけの熱量を映画から感じました。
でもその方向性の熱量はまだまだ人種という括りで縛られているから、私には平和への糸口になるような気がしなかったです

「個人で仲良くなろうと、人種間の差はまだまだ埋まらない」という視点で答えを出さなかったリー監督。
「人種間の差はまだまだ埋まらなくても、個人でなら仲良くなれる」という視点で答えを出したファレリー監督。

同時期に実話で、白人と黒人が競いあい、どちらも正しいのがめちゃくちゃ面白いと思ったけども、私はファレリー監督に一票かな
ヴィゴのお腹が最高だからじゃないよ!
狭須があこ

狭須があこ