むらみさ

ブラック・クランズマンのむらみさのレビュー・感想・評価

ブラック・クランズマン(2018年製作の映画)
3.6
かつて「犬(日本兵)の次は豚(中国兵)が来た」と現地では言われていた台湾にひとり旅したことがあった。
観光施設を周りながら歴史が遺したものを感じながら。
世界のなかで自分がどういう背景の‘人種’に属するのか。それを肌で感じるには、各々の学ぼうとする意欲や想像力に委ねられるところが大きい。
旅のあいだ自分はKorean?と聞かれたりChineseになったりと、様々な国籍に間違えられた。
I'm Japaneseと伝えるとき、自分の国籍を最も意識するとき、私はどんな顔をしていたのだろう。相手を無意識に差別していないか、下に見ていないか、まるで特定の白人の様な気分でアジア人を扱っていないか。

自分が西に旅したらどうだろう。
映画のなかの日本がほとんどHong Konglikeである様に、おそらく西洋人にとってわたしも単なるAsianであり、語弊を怖れずに言えばyellowでありmonkeyなのかもしれない、ある世代以上の先入観のある人間の前では。

【この先ネタばれあり】
本作の劇中でフリップ(アダム・ドライバー)がユダヤ人であるかないかを揶揄されるやり取りは、KKKやブラックパンサーの問題の前では単なる呼び水としてしか扱われない。
純白人優生主義の輩にとってユダヤ人は世界的に既に迫害されたはぐれもの扱いで、下に見ても構わない存在だ。
史実も噂もフィクションもないまぜの、何の理由も無く罵って良い存在に描かれる。白でも黒でもない、どこにも属さない者として。
わかりやすい差別意識を産み続ける白と黒の二極化の前では透明人間も同然。
そこにものすごく、根拠のない差別意識への無力感を感じた。
自分の出生由来のユダヤへの帰属意識の薄い白人であるフリップの視点からの白と黒。
それが本作の狙いだったのなら、もっととても本作を映画として好きになれただろうと思う。


本作の魅力的な見せ場は、白や黒の差別の歴史を描いた部分、ではないことはスパイク・リー監督である時点でわかっていた気がする。
彼の映画たちにはその時代毎のブラックパワーが溢れかえっているし、音楽やダンスやスラムや、そこに今生きているひとをただ撮っていることが魅力なんであって小難しい能書きが魅力的な訳ではないからだ。
本作もロン(ジョン・ディヴィッド・ワシントン)とパトリス(ローラ・ハリアー)のダンスシーンに詰まった同士への愛情表現は素敵だった。
それに対抗できる場面はほかに見当たらないと思えるほど。


‘真の’‘本物の’‘選ばれし’

優生学

アメリカ・ファースト

KKKが酔いしれる言葉はわざと嫌悪しやすい対象として描かれ。
次の場面では世代を越えて迫害され続けてきた歴史を振り返り同士愛を焚き付けて結束するブラックパワーを描く。
こんな描きかたに、ほかの人種が入り込む隙などまったく無い。
スパイク・リーの映画としてはリズムもなかなかに狂っていて、撮っていて楽しいものではなかったのかな…と思わざるを得なかった。それ位とても個人的な【怒り】に満ちている。

彼が描きたかったのは劇中のKKK元最高幹部のデビッド・デュークが現代のまさに‘今’生き続けていること。純白人達の理念として存在し続けていることだったのかもしれない。
ラストの映像は悲壮感を煽りたいからでなく、監督が大切にしている‘今’を届けるとするともう、そんなかたちでしか表現できなかったからなのかもしれない。
スパイク・リーの肩をもつと、そんな受け止め方しかできないほどに、すごく主観的で操作的なラストに突き放されてしまう。

これは映画ではあるけど、映画としては好きになることはできない。共感を赦さない個人的な作品であった。

ただ本作を見ることで世界のなかの誰かが今生き続けるための力になる。
それは「スラムドッグ$ミリオネア」を撮ったダニー・ボイルのように。
「フロリダ・プロジェクト」を撮ったショーン・ベイカーのように。
スパイク・リー監督が撮るべき映画だったのだ、と自分は思う。
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