アラサーちゃん

存在のない子供たちのアラサーちゃんのレビュー・感想・評価

存在のない子供たち(2018年製作の映画)
4.0
時々、なんてことないささいな言葉がとてつもなく重く響く瞬間がある。

オープニング、映し出されるのは薄ら汚れたストリート・チルドレン。彼らは、慣れた手つきで煙草を吸い、狂ったように落ちたガラスを割り砕き、偽物の銃を誇らしげに担いで銃撃戦をまねて遊ぶ。それが当然である日常の風景が、突然の非日常へと移り変わる。法廷。手錠をかけられた小さな痩せっぽちの少年。視線も、表情も、しぐさも、すべてに幼さを含んでいる。まだあどけない。
てっきり彼が被告として裁かれるのかと思いきや、彼の両親が法廷に入ってくるし、彼はそこで手錠を外される。状況が把握できないまま裁判官と少年、時折両親の泣き叫ぶ罵声を混ぜながらの応酬が続き、そこでやっと少年が原告として訴えている側なのだと気づく。では何故、両親が非難され嘆いているのか。どんな罪で訴えたいのか、と、裁判官が尋ねたとき、少年はあどけなさを滲ませた顔色を少しも変えることなく平然と言った。

「僕を産んだ罪」

物語は、主人公の少年ゼインの日常から描きだされていく。おんぼろなアパートの一室に、ろくに仕事もしない両親と、何人もの弟妹とぎゅうぎゅう詰めになって暮らしている。ゼインは学校にも行けず、大家のアサードが営む商店を手伝ったり、兄弟そろって道端でジュースを売ったり、家族が暮らすためのわずかなお金を稼ぎながらぼにゃりと毎日を過ごしている。
彼はある日、歳の近い妹サハルが初潮を迎えたことを知る。ゼインは、なにもわからないサハルのために下着を洗ってやり、ナプキンを盗んで手に入れ、ゴミの始末について教える。冒頭ながら、このエピソードはものすごく心に残った。これが差し挟まれることにより、ゼインやサハルの年頃、幼いながら賢く社会性を身に着けているゼインの性格、軽犯罪が当然のように横行しているレバノンの現状などが見えてくる。このシーンの役割もそうだし、静かで淡々としていながら鮮烈な印象を植え付けてくるイメージの強さ、その描き方に痺れたなあ。

アジア映画はそこまで数多く観ているわけではないけれど、観るたび思うのは、映画の教科書みたいにしっかりしたつくりだな、ということ。カメラワークや編集点や陰影や、スクリーンのなかに映るすべてがどこを切り取っても完璧で、一寸の遊びもない。
もちろんこの作品も例外ではなく、どのシーンもきちんと意図があり、意味づけがなされている。それを伝えるに最も適したカット。たとえば冒頭の子どもたちの映像なら、遠巻きの子どもたちのロングショットに、レバノンの現状が客観的に映し出されるし、子どもたちの髪の毛一本一本まで見えるようなアップショットに、ひとりひとりが生きているつらく苦しい日常が思い浮かぶ。
他に印象的だったのほ、遊園地にやってきたゼインが観覧車に乗った場面だ。真っ暗で轟音の響く地上付近から、ゆっくりと空に上がっていく、開けた世界、明るい空、華やかな音楽。彼は空に夢を馳せている。見知らぬ誰かの家の窓からわずかに見える汚い空に、いつか大好きな妹と眺めた懐かしい空を重ね合わせることもあった。それを効果的にさせているのが観覧車のシーンだ。一瞬の夢を見た後、彼はまた地上に戻る。現実から遠く離れた天上の世界から、機械音が耳をつんざく、真っ暗で何も見えない現実の地の上へと。そういう一瞬一瞬が隙間なく差し込まれるのが、まるでたまらないな、と思う。

キャスト陣はキャリアのある俳優さんたちなのかと思っていたけれど、みな映画のなかの役柄と同じような境遇を経てきた、演技とは全く無縁の人々だと言う。こういった形でのリアリティの追求は、ネオレアリズモの代表作である「自転車泥棒」を作る際にもヴィットリオ・デ・シーカ監督が取り入れたのは有名な話だし(失業した父と息子の映画だが、父親役は実際に失業した電気工、息子役は街で見つけた子どもだと言う)社会問題を浮き彫りにする映画では、とくに中東アジアなどでのキャストを揃えるのが難しいという状況も踏まえてこういう演出はたぶん少なくない。

彼らの鬼気迫る演技というか、まあ、リアルな体験に基づいた再現ともいうべきか、それが素晴らしすぎて息をのんで見守るしかなかった。ゼインが心を無にして働く姿や、サハルが連れ出されるまでのゼインと母親の取っ組み合いも、まるでドキュメンタリーを見ているかのように臨場感にあふれ、差し迫る独特の空気に目が離せなかった。

やはりなかでも主人公ゼインの存在感はずば抜けて素晴らしかったと言える。リアルな底辺を見せながら、どこか異彩なオーラを放つ、不思議な魅力を持つ少年だった。カリスマだと思う。彼の目なんてとくに素晴らしくて。
終盤、ついに「人を刺した」ゼイン。刺す瞬間は映らない、すぐに逮捕・拘束されたシーンに映るのだけど、連行されるときのその冷めた目が、綺麗な黒目なのになにも移していないような温度のない目が、とても印象的だった。
だって、どんなに重くよどんだ目をしているのかと思ったら。まったく変わらないんだもの。回想前の法廷で裁判官とやりとりしているゼインも、労働しながら両親と兄弟と暮らしていた時のゼインも、ラフィールが姿を消し、ヨナスを世話しながら必死に一日一日を生きていたゼインも、ずっと同じ目をしていたんだもの。

そこではっと気づいた。
ああ、彼は、いつ人を刺してもおかしくない目で世界を見ていたのか、って。

泣きたくなった。映し出される映像が、客観的に見て「可哀想」で「悲惨」で「信じられない」、でもそれはあくまで第三者が見ている景色であって、結局のところ「他人事」であるという第四の壁を壊すことはできない。当事者の目にはなれない。いくらゼインに共感する、同情する、といったところで、本当のゼインが目にしている世界は、わずか130cmくらいの高さから見るその世界は、どんなに汚くて、暗くて、恐ろしかったことだろう。

終盤、少年と母親の対話のシーンも鋭かった。冷めた態度のゼインに、何故そんなにじぶんを見下すのか、責めるのか、じぶんだって娘を失ってつらいのだと母親は悲痛に叫び訴える。それでもゼインの心には少しも響かない。

「神様は何か奪う代わりに、贈り物をくださるのよ」
「どんな贈り物?」
「妊娠したの」

母親は信じきっている。子どもが宿ったことは、神様がじぶんに贈ってくれたかけがえのないプレゼントなのだ、と。ゼインは顔色一つ変えない。それでも、その変わることのない表情のなかに、母親の言葉を耳にした瞬間の衝撃、呆れ、絶望、いろんなものを含んでいた。表情ではない表現力が素晴らしくて驚いた。いったん言葉に迷ったあと、ゼインは呟くように答える。

「・・・ 胸が痛いよ」
「あなたが出所するころには、歩いたり、遊んだりしているはずよ」
「心にナイフが刺さったみたいに痛い」

彼は賢くて、決断力があり、博識で、機転がきく。幼いながらも何度となく渡ってきた危険な橋や急に見舞われるトラブルに強く、勘が鋭い。咄嗟に偽名を使ったり、ヨナスを弟だと言い張るために理由をこじつけたり、時に冷静で時に図々しく、彼は人生のサバイブ術に長けているのだと思う。
ただ、世界に落胆している。じぶんが生きている世界のすべてを憎み、呆れ、恨んでいる。「あした世界が滅亡する」という衝撃的なニュースが流れて世界中がパニックになっても、きっと彼はひとり喜んでドラム缶を叩いて祝っているに違いない。

そんな彼が口にした、「ぼくは、人に尊敬されるような立派な人になりたかった」という一言。これには、どうしても涙が止まらなかった。
忌み嫌っていた世界にほんのわずかにも、彼は希望と期待を持っていたのだ。それをずっとまだ発達途上の小さな心の奥の奥の奥のほうに重りをつけて沈ませて、何重にも覆い隠してそれでもなお失くすことなく持ち続けていたのだ。それが嬉しかったし、言葉に出せる勇気があったことに泣いてしまった。

彼は映画の冒頭、連行されながら法廷へと入ってくる。逮捕されたときも連行されている。そしてまた、最後に連行され、なにかの前に立たされるゼインが描かれる。まだ冷めた目をしている。少し唇を尖らせて、目の前にいる大人をひどく警戒するような目つきで。
カメラマンが言う。笑って、と。

「これは、身分証明証の写真なんだから」

そこでやっと、ゼインは不器用に笑顔を見せる。慣れなくてぎこちない笑顔。二時間描かれ続けたゼインがはじめて見せた笑顔だった。そのあどけない表情を逃さずに切り取るようにフラッシュがたかれ、この映画は幕を閉じる。

「存在のない子供たち」は中東アジアの社会問題をリアルに描きながら、民族間や宗教上の諍いは全く描かれない。あくまでアンタッチャブルに生まれた子どもたちが、過酷で劣悪な環境に生きる現状をむき出しに描いた映画であって、それ以外の無駄は一切ない。それよりもむしろ、この悲惨な映画のなかに生きる人々は誰もがあったかいような気さえする。

愚かな両親すら、子どものために涙を流す心がある。身分証明証を偽造するアスプロは必ずしも金としか見ていないわけではなく、ラフィルに猶予を与え、ゼインをひとりの人間として丁寧に扱う。アサードはただサハルがほしかっただけだ。
それに対して、ゼインはヨナスを抱えて生きていくために必死なので、ミルクやキックボードを盗み、身分を偽って配給を得る。極悪人というものが存在しないなかで、それぞれが意識のない悪をどこかに秘めている。よくはない。でもきっと、悪くもない。どちらとはっきり言えない、もやもやとした薄黒いものが登場人物の間を行き来している。わたしにはどれが悪とか、罪とか、裁くとか、そういうことはとても言えないな、と思う映画だった。

ただ、わたしにとって間違いなく今年ベストワンの映画だった。
それだけがこの映画についてわたしがはっきりと言及できる、唯一のことだ。