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存在のない子供たちの海のレビュー・感想・評価

存在のない子供たち(2018年製作の映画)
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子猫を育てる犬の動画を見たり、幼い弟妹の面倒を見ている子供を見かけると、まだ自分にもこの無意識の意志が残っているだろうかと考える。たとえばの話、わたしが今まさに怖いと感じていることの中に、「誰かにとったら耳を塞ぎたくなるほどのネガティブな言葉(「いじめ」や「DV」や「毒親」「虐待」他多数)が流用され別の意味をはらんでいくこと」がある。あふれ続ける言葉によって、悪の根源が埋もれていくのが怖く、掘って掘って掘り返さなければ核心にふれられなくなっていくのが怖い。こういう映画を観ているときもそうだ。わたしはゼインの背後に居て、同時に目の前にも居た。彼の味方でありながら、同時に悪の一部だった。身元を証明できるような物を何一つ持たない子供が、学校に行けないのに仕事には出なくてはならない子供が、生理が来た途端に結婚させられる子供が、愛してるの一言も知らないまま罵り言葉をおぼえていく子供が、この世界には数えきれないほど居るということを、わたしたちはたぶん、知ろうとしなければ知らないままで生きていける。それが怖い、走るのを終えた馬や人間の生活補助を終えた犬や学校に行けない子供たち、お腹いっぱいになるまでご飯を食べれない人たちのために、自分ができることは募金をしたり本や毛布を寄付することくらいで、わたしは自分が、自分のことで精一杯ですという振りをしてるのではないかと怖くなる。目をそらし続けていることが、まだまだたくさんあることが、そして自分が無意識に、会ったこともない命にとっての悪に向かっていくことが怖い。 小学生のころ、授業参観の日だった。担任の先生が、黒人の幼い女の子が涙を流している写真を持って、一人一人の席を回りながらこう聞いた。「この子はなぜ泣いていると思う?」みんな順番に答えていった、「ご飯があまり食べられないから」「飲み物がほしいから」先生は全部にそうじゃないと答えて、だんだん返答は「わかりません」ばかりになっていった。わたしの番が来たとき、「ご飯が食べられて、嬉しいから泣いてる」と答えようとかまえていたのに、その写真を見た途端、喉がつまって何も言えなくなった。わからない?と聞かれ、頷いた。そのまま最後までわかりませんが続いて、先生は、女の子は久しぶりの配給が嬉しくて泣いているのですと答え、みんなはご飯が出てくるのが嬉しくて泣いたことがありますか?と続けた。もしも今、あの時と同じようにあの女の子の写真が回ってきても、やっぱりわたしは答えられないと思う。 無意識が意志と捉えられてしまうことがある。大人になるということは、大人の正しさを知るということでもあり、少しずつわたしたちは、子供ではあれなくなっていく。だからわたしは、仕方なくそうなっていくことを、よかったと自分で感じていたい。大人になってよかったと感じていたい。大人にならないとできないことは山のようにある、自分のためも誰かのためも。わたしが7歳だった頃は別居している実父に会うのかどうかさえ自分では決められなかった。わたしはもう大人だ。それならば、わたしたちが無意識のうちに決めているすべては、時と共にひずんでいくばかりではないと証明したい。ペットショップから誰も動物を買わなければ彼らが解放されるわけではなく、死ぬまで狭い場所に閉じ込められる猫も店主の夜逃げで飢え死ぬ犬も今だってちゃんと確かに存在している、親になるためのテストが仮にあったところで、親子が幸福になっていくわけじゃない、どんな子供もどんな親も理想にはなれないことに悲しみ、怒っている、想像をやめてはいけない、あきらめちゃいけない、自分がどうすればいいのかわからなくても、しなくちゃいけないことがあるのはわかっているはずだ、目の前にある物から目の前に居る命から目をそらしてはいけないということだけは、わたしにはわかっている。だから映画を観る、かれらはそこに居てわたしを見つめた。終わりなんてない。
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