白

イメージの本の白のレビュー・感想・評価

イメージの本(2018年製作の映画)
3.5
読解や創造プロセスにおける手掛かりとしての効用とは別項で、引用をあるテクストを別個のテクストと関係させる手法だと捉えたとすれば、それは作品の世界に私たちの生を接続させる営為でもある。つまり引用行為は文学史(人間が築き上げた言語的な営み、その全体への意識)がテクストに反映されることで作品世界の重層性が増すことを達成可能にする。あらゆる言語的営みが、時に伝統と形容される時間の流れから遠くはなれることなどあり得ない(作品の単独性は、歴史なるものが存在する限り本質的に成し遂げることは不可能)ことが明らかな上で、引用の諸形態は、作品のテクストと接続関係にある別個のテクストの、其々のホモフォニーの固有性を交響させることによって果たそうとする(しかし果たされることのない)originalityへの意志を通奏低音的に秘める。
しかしここで私たちが映画をみるときに不可避的に負うことになる、イメージと記憶の癒着をゴダールは『イメージの本』を通して正面から引き受けようとしていると考えてみると、個々の作品のオリジナリティを意志するものは最早そこにはありえず、かつての自身の記憶に向かいながら、しかし映像という形で表現してしまったがゆえに、我々の記憶として「誤」伝播されるイメージの氾濫がその表現を通して我々に及ぶことになる。同時にそれらはあくまでオリジナルの作品に「似通う」ものにとどまり続ける。それゆえに『イメージの本』は、かつて観た「ような気がする」映像の記憶に心地よく同化する映像体験となったまま、未経験性を反復させることになる。そうしてスクリーンに映し出されるイメージは、すべて「それに似たもの」となって観客一人一人に記憶される。映画の固有名詞によって観客の夢すべてが『イメージの本』へと集約される。
人は映画を観るために、スクリーン(或いは一枚の布)に照射された光を記憶として焼き付けようとする構えを必要とされるが、『イメージの本』は記憶そのものを映像として映し出し、私たちはその(あからさまにそうであると認められた)記憶を記憶することになるという鑑賞プロセスを経る。そうした点で、仮に『イメージの本』の運動は映画体験の止揚そのものであるとしたら、記憶とイメージの関係性もまた変質している。
つまり『イメージの本』が試みた運動は、記憶とイメージを唾棄するものではなく、あくまでそれを経ることではじめて成立する反省=弁証の営みだと考えられる。
白