TakayukiAbe

ドッグマンのTakayukiAbeのレビュー・感想・評価

ドッグマン(2018年製作の映画)
3.9
ドッグマン、とっても面白いです。スコセッシ好きな人は間違いなく当たりの映画です。
ドッグマンはイタリアの海辺の町でトリミングサロンを経営している男の話です。
これだけ文章で見たらめっちゃオシャレそうなお話ですけど、この海辺の町はクソ寂れまくってて、どうやらかつてはリゾート地として栄えてたけどゴーストタウン化したらしく、このオンボロの店、どうやって経営してるんだってくらいイケてないのです。

そう、主人公のマルチェロという男は、とにかくイケてない。町にはシモーネと呼ばれる暴力の化身がいて、町の住人は誰も逆らえず、マルチェロは彼に媚びへづらって、逆に好かれている。男として情けないやつなんですね。

そんな彼の唯一の救いは、離婚相手の愛娘。彼女とのひとときだけ幸福を得られるんです。水中を一緒に泳ぐシーンがあるんですけど、ここでストロークスの『I'll Try Anything Once』が流れれば完全に「SOMEWHERE」。
「SOMEWHERE」でも父娘の水中シーンがありましたね。でも対比するとこっちの海の汚さw

僕は案外この映画の根幹にあるのは親父の威厳だと思ってます。マルチェロは暴君シモーネの恐怖から全ての選択を見事に間違えていきます。
人間は恐怖に支配されると、だいたい選択ミスるんです。その恐怖に内包されている要素の一員として父親の威厳というのが重要な役割を担ってるんです。
それは娘と旅行を計画するシーンで垣間見れます。娘はハワイに行きたいというんです。お父さんが住んでる町には海があるのに「ワイハー!?」父親にそんな金あるはずなく、結構近くの汚いリゾート地に行くのです。

そして色々とあって、父親として一番イケてない、娘の前で大人たちに怒られる、という屈辱を受けます。父親としての威厳がゼロです。そして、マルチェロは大金が入るから「紅海」に行こう!と娘を誘うものの、結局、いつもの汚いリゾート地に行くんです。

これが21世紀のネオリアリズモです。

ネオリアリズモ時代の代表作であるフェリーニの「道」で、「こんな石ころでもだれかの役に立つ」的な有名な台詞があります。冒頭、マルチェロが凶暴な犬を見事に宥めて体を洗うシーンがあり、彼にはそういう能力があることを示しており、まさに犬のようなシモーネを懐柔できる唯一の住人という意味で彼には「役割」があるのです。
そして彼はその能力について、実は心のどこかで他の住人たちとは違うぞ!という優越感を持ってる節があり、シモーネとは切っても切り離せない共犯関係でいるのです。
つまり彼はシモーネがいることでこの狭い海辺の町で、アイデンティティを保たれ、シモーネに牙を向くことが「ドッグマン」としての死に直結するのです。彼は町のヒーローにはなれないのです。
さらに推測で言うと、いわゆるマルチェロはシモーネ世代で、生まれた時からシモーネというジャイアンといっしょに育ったんです。つまり物心ついた時から、圧倒的な暴力が隣近所にいて、それを対処してきたわけです。ある人間はそれに抗いボコボコにされて、ある人間は災害として目を瞑り、生きてきたんです。そんな中で主人公のマルチェロは抗わずに暴力を宥めるという選択をとったんです。
そう考えるとつまり、彼の犬を宥める能力は、シモーネによって開花されたということになり、彼がドッグマンになれたのは、シモーネのおかげであるとも解釈できます。

犬を助ける優しさとずる賢さを併せ持つマルチェロは、まさにスコセッシ映画で出てくる「ユダ」的な存在で、スコセッシから言わせると、彼らこそ最も人間らしい心の弱い生き物なんです。
スコセッシはそんな彼らさえも映画で救おうとした。
圧倒的な暴力の前で保身に走り、仲間を裏切るユダたちにも救いを与えたんですね。
しかしこの映画はどうだろうか。板挟み映画の名手でもあるスコセッシ映画と比べると全くアプローチが違う。
マッテオ・ガローネの暴力は乾き切っていて、一縷の救いもない。
だから、我々はマルチェロを見捨てるしかない。
マルチェロにも問題がある、救いようがない。果たしてそれは正しいのだろうか。全てが終わり、寂れた街に佇むマルチェロのシーンが現代社会の渇きを描いているように感じました。
TakayukiAbe

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