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Miss ライアーのkuuのレビュー・感想・評価

Miss ライアー(2017年製作の映画)
2.5
『Miss ライアー』
原題 The Eyes
製作年 2017年。上映時間 96分。
監禁された男女が究極の選択を迫られるシチュエーションは緊張の連続。
次第に明らかになる彼らの本性と過去、緊迫の駆け引きが描かれ、衝撃のラスト。
監督は、映画『12人の怒れる男』(1957年)や『ソウ』シリーズ(2004年~)、アルフレッド・ヒッチコックやアガサ・クリスティーのサスペンス映画から影響を受けたそうです。

無機質な地下の一室で目を覚ました女弁護士のジャクリ ン。
そこには何の共通点もない赤の他人同士の男女6人が 拘束されていた。
そして、姿なき監視者から『過去の罪を告白し、 生き残る1人を今ここで決定しなければ全員処刑する』と衝撃の命令が下され。

クソー邦題付けよった日本の配給会社め~
こないな意地悪(悪い意味で)タイトル付けんなよなぁ~。

6人が部屋で目覚め、椅子に縛られて『何が起こっとんじゃ~っ』って前提はあまり新鮮ではない。
そう、『ソウSAW』は云うまでもなく、『unknown アンノウン』(2006)等々。
映画、テレビ番組、その他のメディアで、この条件に当てはまるものは数多くある。
なら、ロビー・ブライアンの今作品は、とないしてそれらと一線を画し、シナリオの使い方を新鮮なものにしとるんやろか。
それは、見る側の体験を魅惑的なものにするか、それとも耐え難いものにすっるか、ちゅう問いかけに他なりません。
個人的には前者に傾いていますが、全体があまりにも見慣れた感じやし、全神経を集中させることができないのは否定できない。
その自己満足に対抗できるのは、ロバート・T・ローの脚本が、登場人物を小道具以上の存在として紹介しようとする明確な意志を持っていることかな。
そのために必要な美的感覚を予算が維持できなかった場合、グロい方法で彼らを殺すということではない。
むしろその逆。
このキャラたちは生き残るために、あるいは少なくとも生き残ることを期待させるだけの理由を与えるために存在する。
インターホンの声によると、彼らは凶悪な犯罪を犯している。
でも、それを信じてええのか?
もし我々が彼らを知り、彼らの恐れや思いやり、欠点を理解することができたなら、この正体不明の人物によって定められた彼らの破滅を喜ぶのではなく、彼らの運命に関心を持つことができるんちゃうかと。
小さなことに聞こえるかもしれませんが、この考え方は我々の映画への投資にとってメチャ重要なことと云えます。
与えられたのは1つの部屋、6人の人間、そして飾り気はナシ。
台詞は王道、野心と動機がすべての言葉を動かしています。
だから、差し迫った運命が示される前に(グループは全員一致で一人の生存者に投票しなければならず、さもなければ全員が死ぬ)、誰が我々の時間を割く価値があるのかを決めることができる。冷徹で計算高いジャクリーン・スティーヴンソン(メーガン・ウェスト)か。
滅茶苦茶な状況に直面しながらも冷静さを象徴する弁護士か。
若き日のジェフリー(ダニー・フラハティ)とその絶え間ない冒涜的な悲観主義か?
ハーバード大学の教授アーノルド・プロクター(スティーヴン・ホーク)や、元ミス・アメリカからポルノ女優に転身したヴィクトリア・ミッチェル(アナ・イザベル)はどないやろか?
ハリー(ヴィンセント・パストーレ)は、粗野で非難がましい奴やけど、ロビー(グレッグ・デイヴィス・ジュニア)は、無名の仲間の名誉を守ろうとする侠気のある漁師だと称賛するのかもしれない。
あるいは、皆がショーを見せてくれているのかもしれない。
疑う余地はないだろうか?
コイツらの中の誰かがこの茶番劇の首謀者だと知っている。
だから、彼らは真実を自分の胸にしまっておく。自分たちに関する詳細を、小さく消毒されたカプセルに入れて提供し、より多くの答えが得られるまで、混乱を継続させる。
まず、自動小銃を持った武装した男たちと、目立たないように覆面をしていない女が食べ物を運んでくる。
次に、インターホンの後ろにいる男(ニコラス・タトゥーロ演じるチャーリー)が、ビッグブラザーがいかに常に監視しているかを説明する。
そして最後に登場するのは、壁に背を向けて真実をさらけ出す一人一人の男たち。
運命は彼らの手に委ねられているという考え方は興味深い。
もし彼らが告発された名もなき罪を犯しているならば、ならばですよ、その罪悪感が彼らを悔い改めさせることができるかもしれない。
もしかしたら、もしかしたらですよ(しつらこくて🙇)彼らは自分が生きるに値しないことを悟り、別の人に支援を送るかもしれない。
それこそ、チャーリーの影の政府機関が望むと。
そのため、我々視聴者は彼らの防衛力が弱まり、道徳が働くのを見守ることになる。
生き残るために彼らは何をするんやろか?
そして、他の人が生き残るために何をしないんやろか?
犠牲の要素だけでなく、自分自身を許すという要素も含まれる。
ある者はそれに立ち向かい、ある者は立ち向かえない(闘争または逃走によって生存本能が働くため、死者数は定期的に増加する)。
もし誰かが生きているとしたら、誰が生きているんやろか?
物事は細部でうまくいかない。
ひとつは、この組織が政府の承認を得てやっているという前提。
これは、当時アメリカで可決されてた連邦議会法案に関連した示唆に富むコンセプトやろうとはおもうけど、その活用により、この前提がもっともらしくなるためには、SFの一線を越えざるを得ない。
全知全能の目は、現代の技術で実現可能であるとされているが、実際にはまだそこまで到達していない。
もしブライアンたちがこれらの出来事を未来に置いていたら、チャーリーの主張の信憑性に対して視聴者が頭を悩ませることなく、解説はもっと響いたかもしれない。
彼は、刑務所に入れるよりも裁判をせずに処刑する方が安上がりだと説明するが、それは不信感を抱かせるような大きな問題と云える。
だれがそれを請け負うのか。
二つ目は、登場人物の会話の仕方。
家父長制社会に対するコメントなのかもしれないが、二人の女性のシンプルなコンセプトがまるで外国語で話されているかのように扱われている。
ヴィクトリアがチャーリーの質問とその理由を理解しようとすると、ブライアンは 『彼女は何を云っとんのや』と鼻をかみながら、野郎たち全員から反応を取る。
ジャクリーンが、おそらくうまくいかないとわかっている突飛な回避策を説明すると、みんなかなり無視する。
しかし、彼女が再び激しい対立の末にその話を持ち出すと、アーノルドは、まるでたいそう素晴らしいことであるかのように拍手喝采する。 
こないなように、2人の会話は終始かみ合わない。
そして、この気まずさには理由があるんですが。。。
今作品で見聞きすることの中には、あまりに突飛なものもあり、最後まで付き合うことが出来ないかもしれない(再生停止ボタン)。
また、弁護士が登場すると、どうしても法律が絡んでくるし、法律にどんどん弄ばれていくので、盲目的に受け入れるのは難しい。
今作品は、我々の世界を置き去りにした大げさなスリラーとして扱うならそれでもエエかもしれへんけど、しかし、そこは製作者の意図じゃないと思う。
登場人物の立場に立って、すべてを納得させたいということと云える。
設定の臨場感を超える楽しみが十分にあるので、すべてが失われたわけではないが、この点で、個人的には頂けない。
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