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タロウのバカのumisodachiのレビュー・感想・評価

タロウのバカ(2019年製作の映画)
4.1
大森立嗣監督作品。監督が1990年に書いた脚本を今映画化したらしい。

育児放棄を受け、学校に行ったことがない少年タロウ。高校入学時のルートから外れ、怒りや焦燥感を抱えながらくすぶっているエージ、援助交際を繰り返す同級生を一途に想う高校生スギオ。なんとなく一緒にいるこの3人の、刹那的で衝動的な日々を描く。

一応のストーリーはあるものの、いろいろなシーンがブツブツと繋がっているので、時系列もよくわからない。いくつかのシーンは異様な緊張感を放っていたり、目を背けたくなるほど暴力的だったりする。映画の手触りは『スクエア 思いやりの聖域』 によく似ている。最初から最後まで居心地が悪く胸糞が悪い作品なのは間違いない。

冒頭、社会への不満をまくしたてる半グレの男のセリフが半分くらいしか聞き取れなかったり、3人がやたらと喚いて走りまくるのにいささか古さを感じたりはするのだが、幾度か訪れる緊張感はかなりのもの。特に、タロウが見知らぬ女性に話しかけるシーンや、スクーターにエンジンをかけようと苦心するシーンなど、タロウが中心となるシーンは凄みすら感じさせた。とんでもないな、あの子。普段どんな生活しているの。

「好きって何?」「子どものこと可愛い?子どもが人を殺したとしても?」と人々に問いかけるタロウ。学校にも通えず、漢字も読めない彼は、自力でひらがなは覚えたのだという。でもきっと、母親には褒めてもらえなかっただろう。そんなタロウが、「好きって何?」「死んだらどうなるの?」という、14、5歳の子どもらしい根源的な問いを抱いている。動物的で狂暴な振る舞いをするタロウは、あくまでも《子ども》なのだ。エージもスギオもそう。子どもだから判断力もないし知識もないし常識にも欠けている。だから本当は保護して導いてあげなければいけないのだ。でも、本作に出てくる大人たちは誰もそうしない。無視するか、威嚇して通り過ぎるだけだ。

倒れたスクーターの鏡に自分の顔を映して、少し笑ってみせるタロウ。隠れ家の姿見の中の自分と対峙するスギオ。彼らの笑顔や真剣な眼差しを、ちゃんと見てあげた大人はいただろうか?援助交際を繰り返す洋子のことは?自分を買った男を後ろから抱きしめた洋子はどんな顔をしていた?スギオが瞬きもせずに洋子を見つめたとき、洋子は何を言っただろうか?繰り返しエージを痛めつけた大人たちは、彼の言葉を聞いただろうか?

14歳でセックスを知ったという洋子は、スギオの前で涙を流した。彼女は自ら進んで援助交際をしていたが、それは彼女の自由意志だと本当に言えるのか。子どもだから、自分が傷ついていることにも気付けないでいたのではないのか。私自身、子どもに対して「お前が選択した結果だ」と言って切り捨てる大人になってはいないか。

本作は、単純に弱者救済を謳っている作品ではない。ただそこにある世の中を、現象だけを描いていて、何も説明しない。子どもたちへの懺悔を読み取ったのはあくまでも私の感性であり、明確な正解が示されているわけではない。「ただただ不快だった」という感想だって、もちろんありだろう。でも、私はこの作品にガツンとやられた。「明日はレイプとザリガニ釣りをやろうぜ」と軽く言い合い、女子高生コンクリ事件を「羨ましい」と言ってしまうエージのセリフに、吐きそうなほどショックを受けた。「そんな言葉は間違っている!」と、誰にも教えてもらえないことがあまりにも可哀想で。

エージたちは恨みを持つ相手にしか【まだ】直接的な暴力を振るっていない。【まだ】実際に誰かをレイプしたわけでもない。でも、この先タロウを待ち受けているのはきっと【まだ】の世界ではない。誰も止めてくれないのに、誰も教えてくれないのに、歯止めが効くわけがない。彼は子どもなのだから。

ただ自堕落だった彼らの生活を歪ませるきっかけとして、銃が存在したのも良かった。まさにトリガー。子どもが銃を持つということの異常性と危険性を、これでもかと見せつけるシーンの数々。あんなものが子どもの手に渡ってしまったという絶望を、嫌というほど思い知らされた。銃は単なる道具ではない。特に子どもと結びついたときには。

また、本作の感想でいくつか「障碍者を出す狙いがわからない」というものを見た。毎日河原でお喋りする障碍者カップルがいたら不自然なの?彼らはただそこにいたのではないの?だって、いるじゃん。私の町のカフェでも働いているし、普通に電車にも乗っているでしょう。確かに社会に存在している人を登場させただけで《わざわざ出した》と思うとしたら、その自分の感覚を疑ったほうがいいのでは?彼らはただ、『タロウのバカ』の重要な登場人物として芝居をしていた。そのことの何が不自然なの?

むしろ、タロウたちを救うためにわざと健気な性格を与えられていたりとか、なんらかの【そこにいる意味】が用意されていたとしたら、私は違和感を持ったと思う。でも、違ったから。彼らは、タロウと同じ痛みを覚える存在としてそこにいただけだから。

あのカップルも、タロウも、エージも、スギオも、洋子も、社会にいていいんだよ。子どもが間違っていることをしたならば、正しい道を示して、手を引いて歩けばばいい。いま失われているものがあるとしたら、彼らを正しく導いて守ってあげる大人と、皆で一緒に安心して生きていける社会の方だ。
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