ナガエ

タロウのバカのナガエのレビュー・感想・評価

タロウのバカ(2019年製作の映画)
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「僕は、何を観たんだろう?」と考えさせられてしまった。
いや、むしろこうかもしれない。
「僕は、何を観せられたんだろう?」と。

例えば、ある人物の行動を、ランダムに切り取ってみる、ということを考える。
例えば、

2009年11月30日 15:20
2009年12月15日 3:01
2009年12月26日 18:06
2010年1月2日 11:11
2010年1月3日 23:42
2010年5月4日 13:55

さて、これをそのまま繋げてみたら、どうなるだろう?
人にもよるだろうが、「一貫性がないなぁ」「これは同じ人物の言動なのか?」と感じるかもしれない。

まあ、人間なんて、そんなものだ。ちょっと前に自分が言ったことを忘れてまったく別の主張をしたり、かつてした行動と矛盾する振る舞いをしてしまったりもする。まあ、それで普通だ。

しかし、「物語」として提示されるものの多くが、人間をそういう風には切り取らない。登場人物たちに様々な「きっかけ」を与え、言動が変化することの「納得感」みたいなものを受け手側に与える。そうでなければ、なかなか「物語」としてのまとまりを感じてもらえない。

一旦まとめよう。人間は普通、瞬間瞬間で切り取れば「矛盾だらけ」の生き物だが、しかし「物語」における「登場人物」の多くは、切り取る瞬間が丁寧に選ばれているために、「矛盾だらけ」という印象は排除され、「一貫した行動原理がある」ように描かれる。

さて、そうした前提の上でこの映画を評価してみることにすると、この映画は、「物語」でありながら、人間の本来的な「矛盾だらけ」という性質を、過剰にデフォルメして描き出すものなのではないか、と僕は感じた。

だから、はっきり言って、メインの三人の登場人物たちの行動原理は、「不可解」のひと言だ。彼らの中で、時間や価値観が連続しているようには、なかなか受け取れない。確かに、彼らには、彼らなりのきっかけや理由があるのだろう。それがまったく描かれていない、というわけではないが、この映画では、その繋がりがかなり希薄に描かれているように僕には感じられた。何故そんな行動をするのか、あるいは、何故その行動をしないのか、という説明を、きっと、彼ら自身も出来ない。いや、繰り返すが、人間というのは大体そういうものだ。しかし、「物語」の受け手である僕らは、無意識の内に、「物語の中の登場人物」、つまり「矛盾が排除された形で描かれる人物」としての了解を持ってしまうので、彼らの行動があまりに不可解に見える。

そしてこの物語では、その不可解さを、過剰にデフォルメしているように思うのだ。

そのデフォルメの仕方は、「楽しい」と「楽しい以外」という究極の二択、という形で描かれているように感じる。彼ら三人は、「楽しい」という感情をベースに動いている。そして、決定的に重要なのが、「楽しい以外の感情」の表出の仕方を、恐らく知らない、ということだ。この映画の中では、三人が馬鹿みたいに笑ったりはしゃいだりする場面はあるが、泣いたり苦しんだり悲しんだり哀れんだりというような、「楽しい以外の感情」の表出がほとんどない(まったくないわけではないが)。恐らく彼らには、そのやり方が分からないんだと思う。

で、「楽しい以外の感情」の表出が分からないことが、彼らをさらに歪ませる。つまり、どんなことも「楽しい」の中に組み込んでしまおうとするのだ。世間の価値基準からすれば、どうしたって「楽しい」には含められないようなことを、彼らは積極的に「楽しい」に入れ込んでいく。そして、一旦「楽しい」の中に入れてしまえば、世間の常識や未来に起こりうる結果など関係なしに、彼らは全力でその「楽しい」に興じることが出来るのだ。

この描き方は、なんとなく非常に現代的なものを感じさせる。今の時代を生きる人たちも、「楽しい」と「楽しい以外」の二極化が大きくて、「楽しい以外」を排除したいが故に、いろんなものを「楽しい」に突っ込んで、無理して楽しんでいるような印象がある。そんな現代性を入れ込みながら、彼らの不可解さが過剰にデフォルメされているように思う。

彼ら三人は物語の中で、数多くの犯罪行為を行う。それらは、露見しないのがおかしいくらいあからさまにやっているので、彼ら三人が警察に捕まらないという状況を、僕はある種のファンタジーと受け取った。現実的には、どこかの段階で、彼らは間違いなく捕まるはずだ。しかし、そうはならない。そういう意味での日常性を排除した、ある意味でファンタジックな世界観の中で、彼らの暴走がどこに行き着くのかを描き出すことで、そのことが、現代人の「なんでも楽しいに押し込めていく」という在り方の終着点を示唆しているように思えるのだ。

彼らの「楽しい」は、どんどんと無益で暴力的になっていく。彼ら自身が、彼らが作り上げた「楽しい」に縛られていく。自分達の「楽しい」から抜け出せなくなっていく。それは、当たり前なのだ。彼らの「楽しい」は、「楽しい以外」を無理やり「楽しい」で塗りつぶしていくようなものなのだから。「楽しい」以外の領域を無くしていくことなのだから。そんな風に「楽しい」に追い詰められていく彼らは、滑稽だ。

タロウは散々、「好きって何?」といろんな人に聞く。学校に一度も通ったことがないタロウには、学ぶことによってインストールされるはずの知識が備わっていないのだ。しかし、「好きって何?」と問われる者たちは、誰もそれに意味のある答えを返すことが出来ない。その沈黙はなんだか、『「好きって何?」が理解できたら幸せだよね』とでも言いたげで、結局のところこの物語は、誰も愛を掴むことが出来ていない、という悲劇なんだろうか、と思ったりする。

内容紹介は、ほとんど省略しよう。ストーリー展開は、あって無いようなものだ。ヤクザから奪った拳銃を持て余しつつ、暴力の衝動に身を任せながらクソみたいな日常を疾走する、エージとスギオとタロウの物語だ。
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