開明獣

青の帰り道の開明獣のレビュー・感想・評価

青の帰り道(2018年製作の映画)
5.0
席を一つ空けて左にいた女子高生の二人組みが泣いていた。その隣の端っこにいたおねーさんも泣いていた。席一つ空いた右にいた、おじーさんが鼻をかみかみ啜り泣いていた。前の席の、有閑マダムらしき、おばさま二人組みも泣いていた。劇場出る人皆の眼が赤かった。

開明獣は泣いたりはしない。わらひが泣くのは、ローソンに揚げニンニクの在庫がない時と、ドラクエのバックアップデータが消えてしまった時だけだ。どこからか、海の水が飛んできて、ほっぺについたみたいだけどね。

映画は、創り手が、観せたいものを創って、観てくれる人が観るものだ。観たいものが実際には何かかとかは、絶対にユーザーからは出てこない。エンタメと芸術、もしくはその中間に位置するもの、常にそれは創り手から出てくる。その結果が、観たいものだったり、観たくないものだったかになり、評価になる。編集だ、演出だ、脚本だ、そういうものをあげつらっても意味もないし、仕方がない。制作に、そういうもののテンプレートもプロトコルも存在しないし、必要もない。それはルールであって、何かを縛るからだ。縛られていたら、スピルバーグも、ルーカスも、クストリッツァも、フランシス・コッポラも、北野武も映像作家としては、世に出ることはなかった。神目線で、編集がどーだ、演出がどーだ、脚本がどーだ、というのが聞こえてきても、スカッと笑ってスルーしてあげよう。個人の主観で、好き嫌いはあって結構、面白いつまらないを言うのは大いに結構。が、映画とは、細部のテクニックでクオリティが決まるような、チンケなもんではない。

チャレンジの対象に、重いも軽いもない。そんなものは、幻影で存在しない。定量的にも、定性的にも、度合いを証明しようがない。そんなことをまことしやかに、上から目線で言っていたら、信用しちゃいけない。造り手が大事だと思えば、対象が、政治だろうが、性だろうが、スポーツだろうが、差別だろうが、恋愛だろうが、チャレンジとなる。この作品の監督の藤井道人は、「新聞記者」で政治という分野で立派なチャレンジを果たした。その藤井監督が、青春映画でもチャレンジしているのが本作だ。何がチャレンジなのかは、自分の目で観て判断して欲しい。

7人の高校の同級生が、大人になっていく過程で、甘い蜜も味わい、しょっぱい思いもしていく。世界なんて自分の掌中にあると思っていたのが、どん底に突き落とされる。紆余曲折、七転八倒、それでも前に進んでいこうとする。青春映画が好きな人には、たまらない作品だ。

だから青春映画好きな人にしか勧めない。漬物が嫌いな人に、「ちょ、このぬか漬け食べてみて、人生観変わるから!!」って言われても、迷惑だし、刺さる確率は低い。でも、青春映画が好きな人には、いけてるご馳走なんじゃないかな?今夜も酔っ払って、そんなことを書き連ねる。

「無職ってのは、無限の可能性があるってことなんだよ」と、主人公の1人が吠える。無限の可能性とは、失敗する可能性の方もたっぷりと包含した可能性だ。それでも、分かってるけれど、夢見ることを忘れない、恐れない、捨てない。

この作品を観て、「凪待ち」を思い出した。全然違う映画だけど、どちらも、殆どどんな人にもダメ出しをしない。下手すりゃどうなっていたか、右も左もわからぬお先真っ暗闇な世の中で、どんな在り方でも応援する。

劇場を出れば、もう2度と言葉を交わすことのないだろう、赤の他人同士を瞬間結びつけてくれたこの作品に感謝しよう。amazarashiが歌う主題歌の「たられば」が死ぬほど耳に心地よい。涙が出るほど共感する。そういうことがあったっていい。だから、私は、人は映画を観る。

以下、「たられば」より抜粋

もしも僕が神様だったなら 喜怒哀楽の怒と哀を無くす
喜と楽だけで笑って生きていて それはきっと贅沢な事じゃない

もしも僕が生まれ変われるなら もう一度だけ僕をやってみる
失敗も後悔もしないように でもそれは果たして僕なんだろうか?