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まく子のdm10foreverのレビュー・感想・評価

まく子(2019年製作の映画)
3.7
【ピーターパン】

―――さびれた温泉町で温泉旅館「あかつき館」を営む両親と暮らすサトシ。彼は何処にでもいる小学5年生。そしてバリバリ思春期。クラスの女の子との距離感も若干ぎこちない。でも普通はそんなもん。
そんなある日、サトシが家に帰ると見知らぬ女の子から声を掛けられる。
振り返るとそこには長い黒髪に真っ白なワンピースを着た美しい女の子(コズエ)が立っている(Not貞子)。

「子供?何歳?」
「・・・11歳」
「じゃあ私と一緒だ。だけど私より小さい。どうして?」
「・・・別に変じゃないよ!」
「赤くなってる。耳だけ」
どう接していいかわからなくなったサトシは逃げるようにその場を走り去る。
(なんだろう・・・この気持ち)
翌日学校へ行くとその子が教室にいた。今日から同じクラスに転入することになったのだ。
「そう言えばあかつき館に住んでるんだよな?」
先生の一言にざわつく教室
(サトシと同居かよ~)
(一緒に寝てんのか~)
恥かしくて俯くサトシ・・・。
するとその日から彼女はサトシの近くを離れようとしなくなる。
「どうして着いてくるの?」
「サトシのこと知りたいから」
「・・・・。」

「何となく」王道のジュブナイル作品(何となくがミソ)。
でも、どことなく不思議な感じ。
登場人物の設定も勿論なんだけど、演者の醸し出す雰囲気が不思議なストーリーとマッチしていて、下手するとラストまで平坦な物語になりそうなところに瑞々しいエッセンスが「撒かれていた」。

基本的にね、これは誰でも(特に男性)が通る道だと思うんだけど、小学校高学年の頃の同級生の女子(女の子ではありません女子ですJoshi!)って、男子(Danshi)よりも心も体も成長が早くて、二人きりの空間に置かれるとまともに対峙することが出来ないのよ。それは相手に対して恋心、下心があるとかないとかは別にして。
この頃の「女子」という生物はそれだけ「ミステリアス」でもあり「敵対するライバル」でもあり「神秘的な存在」でもあるのです。
それは大人になって感じる「女性に対する憧れ」とか「恋愛感情」とかとは明らかに違う思春期ならではの「理解が追いつかない生物との異文化交流」にも近い不思議な期間。
「押され気味の男子」と「グイグイ来る女子」っていう構図って、この頃はよくあったんじゃないだろうか?
今までの作品ではそこら辺の部分を「内面の揺れ動き」で表現しているものが多かった印象だけど、あえて「逆手にとってくれたな」って感じで、実は意外とすんなり入ってきたんですよね、この設定。

「大人になんかなりたくない少年」サトシ。
「大人になりたい少女」梢。

理由や目的は人それぞれだけど、どちらも思春期に皆が一度は通る悩み。
でも何もしなくても時間は人間を明日へ連れて行く。それは自然の摂理。

大人になるという事はどういうこと?「心?」「体?」
サトシにとって「大人になる」ということは「ダメになる」ということ。
それは父ちゃんやドノのような馬鹿みたいで野蛮で不潔な人たち。
自分もいつかああなってしまうのかと思うと絶望しかない。
だから、こんなにも拒絶している「大人への変化」が受容れられない。徐々に変わっていく自分の体の変化が怖いのだ。
(僕は昨日も今日も明日も変わらないままでいたい)

しかしコズエは「変わることを知らない少女」。
とある理由から彼女は大人にならない。この辺はオチにもかかわってくるところだし、根本的なネタバレ部分なので深くは触れないが、むしろこの物語を動かすのは「彼女が何者なのか?」ではなく「彼女が何を蒔いたのか?」という事。
それは、サトシに、コウタに、クラスメイトに、そしてあの町の人たちに。

「どうして蒔くのが楽しいか分かった。全部落ちるからだよ。ずっとずっと飛んでたらこんなにキレイじゃないから」

彼女にとって飛び続けることは、何の変化もなく未来永劫彷徨い続ける煉獄のようなもの。そして知った「進化」「成長」「移動」「消滅」「再生」・・・全てが『未来の変化』。
それはたとえ悲しい結果が待っていたとしても、それでも変化があるという喜びにも似た感情。

劇中に出てくるサイセ祭は、いわば「破壊と再生の象徴」のような祭。
あんなひなびた温泉町で開催されるにしてはスケールの大きなお祭だ(笑)
でも、この祭を通して「壊すこと」を恐れる心に向き合い、「再生すること」の意味を受容れていくサトシ。
この映画のテーマをそのまま象徴するかのような祭。

まだまだ死を意識するような年齢ではないからこそ、漠然と抱く将来への不安や希望。
変わることは悪いことじゃない。

まく子・・・ちょっと深いかも。
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