タケオ

スマホを落としただけなのにのタケオのレビュー・感想・評価

1.4
 作中でハッキリと明言こそされてはいないが、本作『スマホを落としただけなのに』(18年)の登場人物たちは誰もが皆「物語進行のために必要な言葉をいちいち口に出さないと気が済まない」という奇病を患っている。あまりにも不自然な台詞が多く、まるで登場人物たちが全員「下手くそな演技」をしているかのようだ。奇病にかかっているのは登場人物たちだけではない。監督の中田秀夫も「深い意図はないけど常にBGMをかけてないと安心できない」という奇病を患っており、鑑賞しているとだんだん正気を疑いたくなってくる。全編に散りばめられた不自然さと違和感は、常に鑑賞者にこの物語が「薄っぺらなフィクション」であることを意識させる。
 しかし、ここで冷静になって考えてみてほしい。もし、監督が自分の作品に「プライド」というものを持っているのなら、「羞恥心」というものを忘れていないのなら、鑑賞者に対する「誠意」というものがあるのなら、ここまでクオリティが低く人をナメているとしか思えない映画の監督であることを、恥ずかし気もなく堂々と公言することができるだろうか?それは無理だろう。つまり、本作がここまで薄っぺらで低クオリティな作品となっているのは、制作陣が意図したことなのだ。
 では、制作陣が意図したものとは一体何だろう?恐らくではあるが、映画そのもののクオリティをどこまでも薄っぺらなものとすることで、スマホが普及した現代社会の「軽薄さ」そのものを浮き彫りにしようとしたのではないだろうか。本作の登場人物たちは、犯人を除いてほとんど全員がライフスタイルの奴隷のような空っぽのバカばかりだ。では、そんなバカたちを描くためにはどうするべきか?自分たちが空っぽのバカになるしかないじゃないか、という制作陣の真摯な姿勢には敬意を示したくなる。作品に対して本当に真剣だ。制作陣の空っぽのバカさ加減が、鑑賞しているこちらにも確かに伝わってくる。そもそも制作陣が空っぽのバカばかりだったという可能性も確かに考えられなくはないが、流石にそれは悲しすぎるよね。
 これは、「東宝」や「TBSテレビ」制作の元に敢行された、良識ある映画鑑賞者に対する挑戦だ。アラン•ムーアによる傑作コミック『バットマン: キリングジョーク』(88年)のジョーカーの犯行とも通底する「人はどこまで正気を保つことができるのか?」の実験だ。怒りのあまり思わず唇を噛み切った僕は、まだ正気だったということだろうか。そもそも、これは本当に実験だったのだろうか。このレビューに書いたことは全て僕の憶測でしかないため、その真相は闇の中だ。しかし、もし制作陣が何の意図もなしに制作した結果完成したのがこのふざけた作品だったというのなら、もう映画の制作はやめた方がいい。
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