しゃりあ

愛がなんだのしゃりあのレビュー・感想・評価

愛がなんだ(2018年製作の映画)
4.2
幸せに恋愛をして、幸せな家庭を作る
平成の"幸せ"、そして"愛"のモデルケースは、無意識のうちに私たちに影響を与えている
それゆえ周りには、熱烈な愛(恋愛)というポジティブな情動に支えられた物語も多く存在していているが、私たちの現実には、漂白された出会い系、切れ切れに点在するサードプレイスなどにより、テルコと守の関係のような、ぬったりとして形を得ず、捉えきれない関係性が確かに存在している

守は別に「自分が世界の中心」というタイプでもない
自分に自信がないというと少し違う気もするが、誰かに好かれる理由が自分に見当たらないため、テルコが自分に好意を寄せているとは思い至らない
守にとってのテルコとは、ああいった近しい距離感の人間でしかなく、それ以上でも以下でもないのだ
そしてなにより、漠然とした不安を和らげる緩衝材であり、自己の承認を"求める"対象ではない

対して特に序盤のテルコは嬉しさを全く隠そうとしないほど、守に入れ込んでいる
頼まれてもいないカビキラーを買っていくテルコ、「二人用」の文字がとても特別にきらめいて見えるテルコ

この関係性をセフレだとか無償の愛だとかの、それこそ前述のモデルケースのような、既知の枠組みに押し込めて理解してしまってもいいが、それではあまりにも取りこぼしが多すぎるように思う
守は別にただヤリたいだけでもないし、二人とも「都合のいい関係」だと思って相手を利用しているわけじゃない
二人とも自分のことばかり見ている嫌いもあるが、相手のことを全く考えていないわけでもない

テルコは好意に奔走することが人生だと思い込み、守は付き合い始めや微妙な関係の楽しさによって人生の寂しさを均している
二人とも承認が欲しいわけではない ただ何かを埋めたいだけなのだと思う
そういった形の欲求が、複雑に好意と混ざった結果なのだと思う

この寂しさや虚無を起点とする感情は悪なのだろうか
スミレが河口湖の別荘で中原たちの関係を糾弾したとき、中原がコンビニの駐車場で声を震わせたとき、その根底には"正しき恋愛と幸せ"の影がちらついていたはずで、そういったモノに対してテルコは「"愛"がなんだ」と罵倒したのだ

結局のところ、中原・葉子のように自己の価値や、既知の枠組みを用いることで、経験的に答えを出すのが良いのか、守・テルコのように納得するまでそれぞれ奔走するのが良いのかという答えは鑑賞者の手に委ねられる
なんにせよ"愛"に真っ向から対立し、新たな定義や生々しい感情に向き合ったこの映画は、承認というキーワードを捨てた"ポスト承認欲求"の映画として瑞々しく成立している


蛇足気味だけど、すごく劇伴が良かった あと冒頭のカット割りとかイカした画もかなり多い
深川麻衣さ〜〜〜〜〜〜ん!!!!!!!!かわいいね!!!!!!!!!!!!!!!!