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愛がなんだのDIZのネタバレレビュー・内容・結末

愛がなんだ(2018年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

ちょうど主人公たちと同世代の私からみる「愛がなんだ」

愛がなんだ、のことを誤解したまま鑑賞しました。
予告やみんなの感想を聞いていると片思いのつらい話だと思っていたけどそうではなかった。
この映画の描く真理は片思いなんかでは片づけられないもっと深くて、どうしようもないものだと感じた。

手がきれいなマモちゃんに惚れたテルコ。
好きで好きでたまらない。
一日中彼からの連絡を待って、一喜一憂する毎日。
こんなに好きなのにどうしてマモちゃんは振り向いてくれないのか?
振り向いてくれるどころか、突然冷たくなったり、突き放したりする。
鑑賞した多くの人はマモちゃんがクズなだけだと思うだろう。
実際やってることはクズだ。
でもマモちゃんの立場になって考えてみると、本当にクズなのはテルコなのかもしれない。

人が恋に落ちるとき、理由はないのかもしれない。
しかし、自分に持っていないものを持っている人に対する憧れと恋は似ている。
テルコは自分にはないものを持っているマモちゃんになりたい、という憧れの気持ちを恋と勘違いしていたのかもしれない。
なりたい自分の姿をしたマモちゃんに愛されることで、自分のことを好きになりたかったんだと思う。
だから、自分勝手に風邪ひいたマモちゃんに味の濃い味噌煮込みうどんをつくるし
頼まれてもいないのに部屋の掃除をする。
そんなテルコをみて、マモちゃんは最初から気づいていたんだと思う。
この人は僕を愛してなんかいない、と。

マモちゃんにとって、テルコは自分から愛を吸い取る寄生虫のように感じるときもあったのかもしれない。

さらに愛を欲して、自分に接するテルコをみていると
まるで自分を見ているようで気持ち悪かったのかもしれない、とも思う。

想いを寄せるすみれさんに全く相手にされないマモちゃんは、テルコとそっくりだった。
頼まれてもいないのに、飲み物を持って行ったり、いつもとは違う自分を演じたり。
ありのままの自分を受け入れてほしいという勇気がない、似た者同士のテルコとマモちゃん。

似ているから惹きつけ合うが、似ているからこそ、自分の直視したくないところに直面しなきゃならない逃げたくなる存在。

もう一人出てくる男、ナカハラ。
彼は状況こそテルコとそっくりだが、彼の愛はテルコの利己主義な愛とは違う。
相手のすべてを受け入れるというテルコとマモちゃんとは正反対、自己犠牲愛をもって好きな人に接していた。
ただ彼女が幸せでいてくれれば、その幸せに自分が少しだけ入っててくれればそれだけでいい、と常々口にするナカハラもまた
自分を受け入れてほしいという勇気はない。
一見、自己犠牲して見返りを求めない真実の愛にみえるけど、ナカハラも自分は愛される価値なんてないと思っているから、
結局はテルコとマモちゃんと同じ。

一見、男勝りで弱さなんて見せないスミレさんも同じだ。

この映画に出てくる人みんながみんな、自分を愛せてない。
ありのままの自分を愛せない人たちが互いに愛を求めあってる。
愛は誰かからもらうものじゃなく自分の中にあるものだと、頭では分かっていても
人は他人に愛を求めてしまう。

自己肯定感が低すぎれば、たとえ恋が成熟したとしても幸せにはなれない。
この映画は恋愛映画じゃないと思った。
人間の本質を描いたヒューマンドラマに感じた。
私はこの作品を観て、今までずっとありのままの自分を愛したかったんだって泣きたくなるくらい気づかされた。

監督の意図とは違う感じ方かもしれない。
タイトルの愛がなんだ、の意味も分からない。
それでも私はこの映画に出てくるすべての人に共通する自分を愛するために
他人にすがって、依存して、執着する姿をみて
自分の本当の望みに気づくことができた。

ナカハラが泣きそうになりながらいう「幸せになりたいっすね…」は
今年一番心に刺さったセリフだった。

今までずっと他人に幸せにしてもらおうとしてた。
自分を幸せにできるのは自分しかいないのに。

テルコはマモちゃんを好きでいる自分ではなくて、ありのままの自分を愛せるといいね。
条件なしで自分を愛せたら、そのときにようやくマモちゃんは振り向いてくれる。

そしてこれは全部、私自身に向けた言葉でもある。

自分を愛せるようになりたいっすね。
愛がなんだ、というわりには愛しか描いてない作品でとても好きです。

自分を愛せるようになってから、また観たいな。
きっとすべてが違く感じることだろう。
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