私は学生時代、指導教員に「研究者というのは、放っておいても論文を読む。研究を仕事だとは思えない人が強い。」と言われた。
私は、研究者にはなれないと思った。「先行研究を知り、新しい研究をして、論文を書く」ために論文を読んでいたのであり、「実績」という見返りを求めていたからだ。
見返りを求めずにただ「読む」人が研究者に向いていて、結果として新しい研究/論文を産む。
あるいは、Netflixに『ハウスオブカード 野望の階段』という政治サスペンスドラマがある。2013年から毎年1シーズン配信され、2018年にシーズン6で完結した。
私はこのドラマの大ファンなのだが、最終シーズンであるシーズン6を見ていないし、今後も見るつもりはない。
2017年、シーズン5まで主演を務めたケヴィンスペイシーが過去のセクハラを告発され、彼はシーズン6の主演から降ろされた。(あんな事件が発覚したのだから、彼は最低だし、主演を降ろされて当然だ。)
その結果、私の中で『ハウスオブカード』は完結しなくなった。同時に、「話をうまくまとめる」という見返りを求めなくなった。『ハウスオブカード』という作品のことがより一層好きになった。
または、「この映画はFilmarksにレビュー書くぞ」と初めに決めてから見た映画は楽しめない。映画を見た後、思わず書いてしまったようなレビューのほうが素敵だ。
研究者も、ある作品のファンも、みんななにかを”盲信”していて、そういう人の方が魅力的だ。
だから、テルコは「シーズン6」を見ないことにした。ただし、その選択は外から見れば狂気に見えることもある。
『愛がなんだ』は、そういうことを論じた映画だと思う。