まっつ

CLIMAX クライマックスのまっつのレビュー・感想・評価

CLIMAX クライマックス(2018年製作の映画)
2.3
ギャスパー・ノエ監督作品は初見。


カメラワークで対比を表現するのがとても上手い印象。

序盤のインタビューシーンやダンスリハーサル終了後に訪れるダンサー同士の会話シーンでは細かくカットが切り替わる。ダンスに対する語りや他愛もないお喋りには理性が感じられ、その様を小刻みにテンポよく映していく。対して、事態が破滅に向かう最中やその顛末では長回しが多用される。人と人がシームレスに繋がれば繋がるほど混沌が生まれる。

「各々が分断されているように見えて実は統制が取れている」前者と「密接に結びついているように見えるが実際は混沌があるだけ」な後者。この対比は、「実生活でも携帯電話をあまり使わないタイプ」と語るギャスパー・ノエ監督らしい。この映画にメッセージがあるとするならば、それはアルコールやドラッグの否定でもフレンチタッチへの賛美でもなく(もちろんそれらの要素もあるかもしれないが)「常時接続」への恐れなのではないか。

「常時接続」への恐れはストーリーテリングの中にも見出せる。クセは強いものの大筋は「犯人は誰だ?」というミステリー。脚本はたった5ページにも関わらず終盤に向かって伏線が回収されていく感覚を覚えるのは順撮りの成果だろう。インタビューシーンの伏線をきっちり回収こそすれネタばらしそのものはあっさりとしていて(ラストショットで映る人物の行動はもちろん、一瞬だけ側に映る本も見逃さないでほしい!)拍子抜けするが、今挙げた要素も『常時接続からの逃避』として捉えると一本の線で繋げられる。ジャンル映画化することである種の非日常感を観客にもたらし、ネタばらしに感傷を加えないことで現実との接地を避ける手捌きには、フィクションへの没入とともに切実な現実逃避の匂いを感じた。

繋がり続けることがそこまで良いことなのか?繋がりを求めた果てがこのザマなんじゃないのか?そんなメッセージを、1996年に起きた(しかし新聞の一画にひっそりと綴られた程度の)事件を基にすることで示しているように感じる一作。
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