ケンヤム

斬、のケンヤムのレビュー・感想・評価

斬、(2018年製作の映画)
5.0
塚本晋也は人と人ならざるものとの境目を撮りつづける作家だ。
人がモノに変わる瞬間を撮り続ける作家だ。
それは、人の体から手足がちぎれる瞬間であり、内臓が飛び出て血しぶきの上がる瞬間だ。
そして、血がダラダラと流れ出て人間が絶命する瞬間、私たちの体はまるごとモノとして世界に投げ出される。
そこに暴力が介在しないわけがない。
極限の暴力が場を支配する時、そこに存在する人はモノに変化せざるを得ない。
それは、刀という無機物に魂を明け渡すことでもある。
「これは何だ!」とモクノシンは刀を掴みながら叫びのたうちまわる。
「人を切れるようになりたい!」と叫びのたうちまわる。
刀の発明された理由と意義を言える人間がこの世にいるだろうか。
現代に置き換えれば、銃がこの世に発明された理由と意義を言える人間がいるか?
私たちは暴力を本能的に求めている。
ユウとモクノシンが指を噛み、首を絞めたように、私たちはコミュニケーションとしての暴力を無意識に欲しているのだ。
暴力はセックスなのだと思う。
モクノシンは、人を斬ることができないという欠落を埋めるためにオナニーをするのだ。

命のやり取りの中で聞く関節の軋む音、自分の肌と肌が擦り合う音、身体の中に血の流れる音、自分の足音。
私たちが実は生まれてからずーっと聴き続けてきた音をこの映画は思い出させてくれる。
人間の身体の中に常にこだまする音たちを思い出させてくれる。
だから、その音が外に出た時のグロテスクな音が際立つ。
内蔵がどちゃっと腹から溢れる音、血飛沫の吹き出す音、皮膚の避ける音。
グロテスクさの中に、一種の開放感のようなものを一緒に感じるのは私だけか。
野火の時にも感じた、人の死んでいく時の血しぶきは何よりも美しい鮮明な赤なのではないかというような感覚。
ほとんど自然に溶け込んでいくように死んでいく人たち。

人が人を斬れるようになった瞬間、人は人でなくなる。
刀という無機物と同化したも同じになる。
刀を抜くというより、抜かされている。
今も同じだ。何か起きているというよりも、起きてしまっているという感覚。
人間の暴力に対する欲求の不安定さをこれでもかと掻き立てる刀という洗練された武器。
ミニマルで純真無垢な刀のきらめき。
ケンヤム

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